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解説編集

日本剣術流派である『柳生新陰流』の開祖とされる剣豪。しかし自身は生涯師の流派名である「新陰流」を名乗り「柳生新陰流」と名乗った形跡はない。

本名は「宗厳」、通称は「新介」「新次郎」「新左衛門」「右衛門」。

官職は「但馬守」だが柳生但馬守という場合、息子の宗矩の方が多く、小説などでもこの呼び名が使われることは少ない。


石舟斎は入道後の号(称号)で創作物などでは、こちらで呼ばれることが多い。

石で出来た船は、当然ながら水に浮くことはない。すなわち自分自身を無用なものとして宗厳が自嘲気味に名乗ったとされるが、定かではない。

この石舟斎を名乗り始めたのは、豊臣政権に入り、先祖伝来の所領だった柳生庄を奪われた時期であり、宗厳が戦国武将としての野心が潰えたと痛感したことが察せられる。

あるいは長男・厳勝が鉄砲で撃たれて身体が動かせなくなったこと、鉄砲中心の合戦に変わって兵法が廃れた事などを受け、自身が身に着け、息子たちに教えた剣術が役に立たなかったことを嘆いたからともいわれる。


このような逸話や歴史上の振る舞いから世の中に頓着せず、ひたすら剣術の研鑽に打ち込んだ人物というのが石舟斎のおおまかな人物像である。


生涯編集

大永7年(1527年)、武将「柳生家厳」の子として大和国の柳生の庄(奈良市)に生まれる。

若い頃から武勇に優れ、新当流中条流などを学んで畿内一と賞される腕前に達した。

新陰流を広めるため畿内へ来た上泉信綱に試合を所望したが、門弟の鈴木意伯神後宗治)に何度も惨敗したという。

これを機に上泉信綱の門弟となって一行を柳生の庄へ迎え、新陰流はここを起点に畿内に伝播した。

修行の末、上泉信綱が考案した『無刀取り』を完成させたとされる。


武将としての宗厳は松永久秀に仕え、戦功を重ねて側近となり、終いには興福寺に陣を置く一軍を率いる立場にまで抜擢された。

しかし元亀2年(1572年)、久秀と筒井順慶の合戦で長男・厳勝が負傷し、身体を動かせないほどの障害を受けた。しかも久秀が信長に反旗を翻して敗れたため、織田家中での立場も失ってしまう。


久秀死後の大和国は久秀の下で長年争ってきた筒井順慶が掌握する。久秀派の国人が順慶に粛清されていく中で、宗厳は順慶には従わず、近衛前久および豊臣秀次の庇護を得ることでようやく命脈を保つ。


その後順慶に代わって豊臣秀長が大和国の統治者になると、隠し田を発見されたことで先祖代々の所領を没収され更に困窮する。

辛酸を舐めつつも、その剣名を聞いた徳川家康毛利輝元等の庇護を受ける幸運にめぐまれる。その後、五男・宗矩が徳川将軍家剣術指南役として勇名を馳せた事で、その流派は天下に普及し、「剣は柳生」「天下一の柳生」と賞される程の栄華を誇った。


慶長11年4月19日(1606年5月25日)に没したとされる。


新陰流正統説について編集

永禄8年4月に上泉信綱より石舟斎に与えられた印可状には「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」とあり、その後続けて「上方には数百人の弟子はいるがこのような印可を与えるものは一国に一人である」と記されている。ここから、宗厳は上泉の多くの弟子の中から、この日本でただ一人の新陰流の継承者に選ばれ、新陰流二世を名乗っていたという伝説が生まれた。


反論編集

宗厳が新陰流の正統を継承したという伝説は、昭和30年代に宗厳の子孫が出版した本で紹介された事で広く世間に知られる事となったが、当初から武道史の研究者からは以下のような指摘があった。

  • 当時の「国」という言葉は日本全体ではなく、大和の国など一地方を表す用法で用いられる事の方が多く、唯一無二の後継者を指定する意味にとるのは難しい。
  • 宗厳が印可を与えられた四ヶ月後の永禄8年8月に、上泉から宝蔵院胤栄(宗厳と同じく大和の国に居住)に与えられた印可状にも「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」と、宗厳の印可状で保証されている内容と全く同一の事が保証されている事から、大和の国内でも(宗厳が受けた時点では一人だったかもしれないが)将来に渡って一人にしか与えないことを保証する意味合いがあったとは考えづらい。

とはいえ、この伝説は多くの歴史小説・剣豪小説でも取り入れられており、現在でも既成事実として扱われる事が多い。


宗矩との確執編集

歴史、剣客小説では、もはや定番ともいえるのが五男・宗矩との確執である。

ただし、あくまでもフィクションの話である。

性格の不一致編集

これは長男が戦傷で不随になり、伝来の所領も失って剣一筋に生きた世捨て人という石舟斎のイメージに対し、父の剣名を利用して柳生本領三千石を取り戻し、剣術指南役に抜擢され、三代将軍・家光の側近にまでなり上がった宗矩の持つイメージが真逆であることが関係している。


石舟斎は、仕えていた久秀の死後は元関白・近衛前久、関白・豊臣秀次に剣術指南したという研究者もいるが、小説等ではほとんど柳生庄に引き籠っていたとされることが多い。

一方の宗矩は、上記の通り、武将としての柳生家と兵法としての柳生流を天下に知らしめた策略家として知られている。


このような真逆な人物像をイメージされる親子が上手くいかなかったのではないか、という連想や小説の作劇上の都合、二人の反りが合わないように描かれることが多い。

新陰流正統編集

また石舟斎は、宗矩ではなく孫・利厳(長男・厳勝の子)を正当後継者、新陰流三世に選んだという通説がある。ただし、これは尾張柳生新陰流が勝手に主張していたという説や孫の仕官を手助けしようとした老齢の石舟斎が新陰流正統という肩書や、新陰流は一子相伝などをでっち上げたのではないかという意見もあり、信憑性を疑問視されることもある。


石舟斎が覇気を無くして引き籠り始めた理由として、主君である松永久秀の没落のほかに、長男・厳勝が戦傷を受けたからではないかという推論があり、実際に晩年は利厳を傍に置いて剣術を教えており、孫を大変可愛がっていたことが窺える。

このことから、石舟斎と宗矩の確執の理由として、厳勝・利厳親子に宗矩が嫉妬したことを描く小説もある。


名言編集

うつすとも水は思はず、うつるとも月は思はず、さる沢の池


一文は無文の師、他流に勝つべきにあらず。きのふの我に今日は勝つべし


登場作品編集


石舟斎をモデルにした人物編集


余談編集

鬼滅の刃炭治郎が狐の面を付けた錆兎に稽古を付けられ、最終的に彼との勝負の中で大岩を斬り伏せるエピソードがある。

これは、石舟斎が若き日に山奥で出会った天狗との勝負で、斬ったはずの天狗の場所に真っ二つに斬り裂かれた巨石があったという『一刀石』の伝説がモチーフではないかとされ、彼らの師である鱗滝が天狗の面を付けているのも、それの暗示ではないかと思われる。

その影響により、一刀石が存在する『柳生の庄』は鬼滅ファンの聖地の一つとなっている。


関連タグ編集

日本 剣豪 剣術 武術 柳生新陰流

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