概要
上泉信綱は弟子の疋田景兼、神後宗治と共に京に上り、将軍足利義輝の前で上覧試合を行い、「上泉伊勢守兵法天下一」の感状を受けた。
上泉信綱は「陰流」、「香取神道流」、「念流」という「兵法三大源流」と呼ばれる3つの剣術流儀を学び、それらの奥源を極め、特に陰流から多くの参考を得て「新陰流」を完成させたとされる。
彼の弟子の一人、柳生宗厳(柳生石舟斎とも)が正当継承者となったとされる(諸説あり)。
柳生家が伝承していった事で「柳生新陰流」という俗称で知られるが、「新陰流」に対して分派を起こしたわけでもないので、正式には「新陰流」のままである。
ただし、武道学では、信綱が伝えた頃と柳生家が伝えるようになってからの違いや、柳生家の系統とそれ以外の新陰流の違いを区別するため、「柳生流」と「柳生新陰流」を分けて使用することもある。
また、柳生宗厳の弟子筋の流派には「柳生」を冠したものがある。
宗厳の高弟であった柳生姓を許された柳生松右衛門(大野家信)から有地内蔵允(有地元勝)を経て、福岡藩に伝わった系統は「柳生新影流」と称している。
主に剣術が知られているが、柔術の体さばきなども術理に取り入れられており、上述した素手で相手の刀を取る「無刀取り」も、いわば柔術の技とも言える。
そのため、石舟斎や彼の息子である柳生宗矩の門下たちは、後の講道館柔道の源流となる起倒流や、柳生心眼流・小栗流などの柔術諸流派を生みだしている。
上泉信綱の甥、疋田景兼は細川氏(熊本藩)に仕えた。熊本藩では彼の伝えた新陰流が「新陰流」と呼ばれたが(柳生家系の新陰流は「柳生流」と呼ばれていた)、一般には「疋田陰流」と呼ばれる。
上泉信綱門下の四天王の一人に数えられた丸目長恵(丸目蔵人)は西国での新陰流の教授を任され、上泉信綱の死後に「タイ捨流」を開流した。
上泉信綱門下の四天王の一人に数えられた神後宗治は豊臣秀次の剣術指南役となり、「神後流」を開流した。
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無刀取り-上泉信綱が理論を示し、柳生石舟斎によって大成された徒手空拳の奥義。俗に言う真剣白刃取りとは厳密に言えば似て非なるもの。