肥後(熊本)国を領した豊臣恩顧の大名・加藤清正、小西行長から始まり、外様大名・細川氏の治政をいう。
概要
天正14年(1588年)、肥後(熊本)を領していた佐々成政の改易となり豊臣秀吉は加藤清正を肥後北半国19万5千石を与え、小西行長に天草地方を含めた南半国20万石あまりを与えた。清正は隈本城修築に着手、「隈本(くまもと)」を「熊本(くまもと)」に改めると、慶長5年(1600年)には天守閣が完成する一方、行長は宇土城を居城とした。
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが起き、西軍に属していた小西行長は囚われて斬首、東軍に属していた加藤清正は行長の領国を与えられ、52万石を領することとなった。
清正の死後、清正の嫡男・忠広が熊本を治めたが、寛永9年(1632年)5月改易、徳川忠長の謀反に関与したともいわれているが、いまだ理由はわかっていない。
熊本には小倉から細川忠利(細川忠興の三男)が入り、代々幕末まで54万石を領した。
なお、天草半島は唐津藩・寺沢氏の飛び地であったが、当代の藩主・寺沢堅高の圧政により、寛永15年(1638年)、島原の乱が起き、鎮圧後、唐津藩は責任を問われて天草領を没収、天領とされた。
また、江戸幕府は一つの藩には一つの城をもつことしか許さない「一国一城令」を発布しているが、熊本藩南部の八代には八代城があり、当初は忠利の父・忠興が隠居所とし、忠興死去後には家老・松井氏の居城として3万石を領していた。
特例ともいえるこの措置は、熊本藩に薩摩の島津氏を監視させるものだったといわれている。
藩にとって最大の危機は7代藩主・細川宗孝の横死であった。延享4年(1747年)8月15日、江戸城内において人ちがいにより斬りつけられ絶命したのである。本来であれば「喧嘩両成敗」となり改易となるところ、人ちがいという事情から辛うじてお取り潰しを免れている。
幕末期、藩全体が保守的であり横井小楠は冷遇されたあげく越前・松平春嶽に招かれるなど、藩論は佐幕・討幕に分かれるなど、文字通り四分五裂の危機を迎えるが、新政府に恭順、明治17年(1884年)、華族令により14代藩主・細川護久は侯爵に叙された。
歴代藩主
加藤家
細川家
- 細川忠利
- 細川光尚:忠利の長男
- 細川綱利:光尚の長男
- 細川宣紀:光尚の次男・利重(支藩・新田藩主)の次男
- 細川宗孝:宣紀の四男
- 細川重賢:宣紀の五男
- 細川治年:重賢の次男
- 細川斉玆:忠利の異母弟・立孝(支藩・宇土藩主)の玄孫
- 細川斉樹:斉玆の三男
- 細川斉護:斉玆の長男・立之(宇土藩主)の長男
- 細川韻邦:斉護の次男。熊本藩知事。