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元田永孚

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もとだながざね

明治時代の漢学者。侍読、侍講、侍補、皇后宮大夫、宮中顧問官、枢密顧問官、宮内省御用掛。明治天皇の御学問向上につとめた。

肥後の出身。本名は八右衛門。

藩校時習館に学び、塾長横井小楠の親密な指導を受け、ともに実学党(純粋朱子学)の運動を続けた。

明治維新後も藩主の侍読など藩内の仕事が多かったが、明治4年5月、52歳になって、太政大臣三条実美の要請で明治天皇の侍読(のち侍講、侍補兼任)として宮内省に出仕した。

その後は明治天皇の側近の中でも年長者であるだけでなく、儒学者としての学殖の深さでも一目置かれた。

吉井友美佐々木高行土方久元らと展開した天皇親政運動の理論的な指導者でもあった。

元田の教育は、古来の儒学の徳目中心で、「君となり師となる御天職の天皇」を輔導することであった。

明治天皇には洋学の加藤弘之(初代東大学長)や、彼についで西村茂樹(道徳教育の大家)など近代的な教育者も侍講としてついていたが、元田の影響力が圧倒的で、天皇がたびたび政府の施政や教育を批判され、希望を述べられたのも元田の進言によるものである。

毛利元就の「三本の矢」の逸話で有名な『幼学綱要』や『教育勅語』など多数の教育関係文書も、ほとんど元田の手になる。

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