横井小楠
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よこいしょうなん
日本の武士(熊本藩士)、儒学者、政治家。維新の十傑の1人。
生没年 文化6年(1809年)8月13日~明治2年{1869年)1月5日
肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる。子の時雄は熊本バンドを結成、同志社英学校(のちの同志社大学)で学んだ後、同志社社長となり、衆議院議員となった。
熊本藩・藩校・時習館で学んだのち江戸に遊学、儒教を学ぶ。帰国後、私塾・四時軒を開き後進を育成、熊本実学党を組織する。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗し、各地を遊学。安政5年(1858年)、福井藩主・松平慶永(春嶽)に招かれて政治顧問となり、橋本左内らと幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが、明治2年(1969年)1月、京都において明治政府の開明的な政策に不満を持つ保守派に暗殺された。病を得ており、職を辞して熊本に帰る直前だったという。
儒学者にありがちな思想のかたよりがなく、柔軟な思考のできる人物だったと伝えられている。
アメリカに派遣されていた勝海舟との会談の際、「大統領制」が話題になり、小楠は「それは(王位を禅譲して権力を譲った古代中国の伝説)尭・舜・禹の話と同じですな」と答え、海舟はその柔軟で明晰な答えに驚き、舌を巻いたという。
なお、大変な酒好きでお供えのお神酒まで飲んでしまうほどであったとされる。
坂本龍馬も四時軒に来訪し、酒を酌み交わしながら議論し合うこともあった。結果として新政府の構想の違いから仲が悪くなる。とはいえ、竜馬自身は横井の思想を理解しており新政府のメンバーの構想にも横井を筆頭に上げている。しかし、龍馬が暗殺されたことにより仲直りは叶わなかった。
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