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勝海舟

かつかいしゅう

文政6年(1823年)~明治32年(1899年) 幕末明治期の幕臣・政治家。『幕末の三舟』の一人。
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生涯編集

名は義邦、通称は麟太郎。

安房守だったので安房と称し、のちに安芳と改名。


文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸幕臣の勝家の長男に生まれる。勝家は旗本であり御家人ではなく、海舟の高祖父の代で鉄砲玉薬同心から広敷番頭に出世したことで御家人から昇格した家だが、2連続で末期養子が続いて石高が41石と旗本としては異例に低くなったので、勘違いされやすい。父方の男谷家は幕臣としては新参の家であるが、母方の勝家は江戸幕府ができるより前からの徳川家の家臣である。


なお余り知られていないが、海舟の母方高祖父である勝市郎右衛門は幕末の大奥御年寄の滝山の曾祖父で、海舟の母は滝山の従姉妹でもある


ちなみに、父親で勝家の婿養子の勝小吉は不良旗本として有名であり、関所破りや道場破りの常習犯で江戸のみならず関東各地で悪名を馳せた。

就職を嫌い、まだ3歳の息子(後の勝海舟)に家督を譲ろうとしたなど、逸話の多い人物である。息子同様に自伝も残している。


文政12年(1829年)に父方の伝手で幼少時に徳川家斉の孫の一橋慶昌の遊び相手に取り立てられたが、慶昌は早死にしてしまい、側近として出世する可能性は消えてしまう。


慶昌が早死にした天保9年(1838年)に父の隠居を受けて勝家の家督を相続。しかし天保年間に父の素行不良のために、保科栄次郎邸に両親ともども預処分となる。…ついでにいうと、保科栄次郎邸はパリ万博博覧会使節団として渋沢栄一らとともに派遣された保科俊太郎正敬の実家である。


しかし男谷精一郎などから剣術と学問を学び、そこで佐久間象山と交流するようになる(海舟の妹は象山に嫁いだが、海舟も象山も自信家であり、象山の傲慢な性格もあるせいか、回顧録で海舟は象山を良く言っていない)。


黒船の来航後、老中・阿部正弘や海防掛・大久保忠寛(一翁)の知遇を得て長崎海軍伝習所に入る。

万延元年(1860年)に幕府遣米使節団の一員(当時は幕臣だった福沢諭吉も参加)として咸臨丸を指揮して渡米。行きは船酔いがひどく船長室にこもりっきりだったらしいが、帰りは無事に航海している。(慶應義塾の創始者・福沢諭吉も通訳として咸臨丸に同乗しているが、このころから海舟との仲は険悪だったらしい)

帰国後、神戸に海軍操練所を設立して軍艦奉行となり、この時期に坂本龍馬西郷隆盛らと知り合っている。

その後、保守派の多い幕府首脳部に睨まれて一時職を退いていたが、第二次長州戦争の停戦交渉のために政治後見職・一橋慶喜から引っ張り出されるが、慶喜自身により頭ごなしに孝明天皇の勅命を引き出され、怒った海舟は江戸へ引き上げた(ちなみに、徳川慶勝(尾張徳川家)と西郷隆盛も、第一次戦争の後で穏便に処置したのに慶喜に再戦され、心証を害している)。


しかし、慶応2年(1866年)、慶喜が将軍に就任し、佐幕派の孝明天皇が崩御すると事態は一気に武力倒幕へと動き始める。慶応3年(1867年)11月、先手を打った慶喜は大政を朝廷に奉還したが、翌慶応4年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると大坂城から慶喜は逃亡、官軍(薩長主体の明治政府軍)が東征を開始した。誰も対応できない徳川家は海舟を呼び戻す。徳川家の陸軍総裁となった海舟は、徹底抗戦を主張する小栗上野介の意見を「関東以北の残存勢力では新政府側に勝てる望みがない」「フランスの支援に頼ると内戦に外国を引き込んでしまう」と握り潰し、旧幕府側を代表して旧知の西郷隆盛と交渉し、江戸明け渡しの任を全うした(ついでに、邪魔な近藤勇などを、大久保一翁らと共同で適当な理由を出して、江戸から追い出している)。とはいえ、榎本武揚大鳥圭介らに幕府軍主力艦隊を率いさせたまま「脱走」させ、彰義隊に江戸市中の警備を任せさせるなど、徳川家の政治力を保つために動くのは怠りなかったが、主に彰義隊の軽挙妄動のせいで、京都の新政府から新たに来た大村益次郎に彰義隊を壊滅させられてしまい、実質的にも江戸の支配権を奪われた(朝廷もこの年の正月にさかのぼって「明治」に改元している)。


明治維新後は、政府で参議・海軍卿・枢密顧問官などを歴任、徳川将軍家の家臣の代表格として伯爵に叙せられた。また、慶喜の名誉回復と旧幕臣の再就職の世話に尽力している。


政治的主張で対立を繰り返し、第二次長州戦争では顔に泥を塗るような真似までされたうえに、海舟が先代の徳川家茂に心酔していた事もあり、慶喜とはたがいに嫌いあうほど関係が非常に悪かったらしい。それでも海舟の実力は認めており、江戸開城のおり慶喜に海舟を呼ぶよう命じられた近臣は驚きを隠さなかったという。海舟もその期待に応え、江戸無血開城を果たし、慶喜の助命と社会復帰に尽力、将軍家とは別の家として公爵位を得させる事ができた。晩年、跡取りに先立たれた勝は慶喜の十男精(くわし)を婿養子として迎えており、何だかんだ言いながら両者の交友は最後まで続いている。

福沢諭吉は、自然科学に疎く大言壮語を繰り返す海舟を嫌っており、自伝や「痩我慢の説」で当てつけがましい事を書いているが、海舟としては気にしていなかったらしい。


著書に『海軍歴史』『陸軍歴史』『開国起原』『氷川清話』などがある。

また、16歳になったばかりの長男・小鹿をアメリカに留学させており、武士の誇りを守ることを諭す訓戒状が残されている。


逸話編集

  • 幼少期はド貧乏で年末にたまたま他所の家の子供が大量におをもらっているのを見て母親に「おいらも餅食いてえ」とねだり母親が親戚に相談して餅をもらえることになる。数日後、親戚から餅をもらったはよいが帰る途中石につまづいて餅を落としてしまう。それを周りの通行人が「武士の子がw」と嘲笑うのを見て急に自分が情けなくなり、餅を全部橋から川に投げ捨ててしまったという。
  • 7歳の頃、寺子屋からの帰り道に野犬に教われ睾丸をかじられてしまう。かかりつけの医者に相談したところ「保って今夜まででしょう」と診断される。そこで父・小吉はなんとか息子の命を助けたいという思いで毎日近くの神社に行き水ごりをして海舟の回復を願い、自らも懸命な看病をしたことで海舟の容態は峠を越し回復した。

創作上の勝海舟編集

ドラマ編集

演者:「作品」(年)

萬屋錦之介:「田原坂」(日本テレビ、1987)

津川雅彦:「五稜郭」(日本テレビ、1988)

田村正和田村亮:「勝海舟」(日本テレビ、1990)

小日向文世:「日曜劇場 JIN-仁-

内藤剛志:「竜馬におまかせ!

井深克彦:「戦国鍋TV」⇒幕×JAPAN

福冨慶士郎鈴木福稲葉友:「小吉の女房」(2019年・2021年、NHKBS時代劇)

高橋克典:「新十郎探偵帖」(NHKBS時代劇、2020年)

味方良介:「大奥(よしながふみ)」(NHK)


NHK大河ドラマ編集

演者:「作品」(年)

渡哲也松方弘樹:「勝海舟」(1975)

林隆三:「翔ぶが如く」(1991)

坂東三津五郎:「徳川慶喜」(1998)

野田秀樹:「新選組!」(2003)

北大路欣也:「篤姫」(2008)

武田鉄矢:「龍馬伝」(2010)

生瀬勝久:「八重の桜」(2013)

遠藤憲一:「西郷どん」(2018)


舞台編集

三上市朗:「東京心覚」(ミュージカル『刀剣乱舞』

譜久村聖/和田桜子リボーン〜命のオーディション〜


漫画編集

サムライガン

星をつかみそこねる男

お〜い!竜馬

風雲児たち

新撰組異聞PEACEMAKER

ちるらん新撰組鎮魂歌


アニメ編集

CV:「作品」

八木光生:「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」

小杉十郎太:「陽だまりの樹

てらそままさき:「サムライガン


ゲーム編集

遙かなる時空の中で5(CVなし)

ラヴヘブン(CVなし)

萌えよ剣(CV:岸野幸正

龍が如く維新!(CV:堀内賢雄)⇒青山稔

龍が如く維新!極(CV:鳥海浩輔)⇒荒川真斗

東京魔人學園外法帖(CV:高瀬右光

ライズオブローニン(CV:山路和弘)⇒勝海舟(ライズオブローニン)


関連イラスト編集

麟太郎、大奥へ行く


関連タグ編集

武士 政治家 幕末 江戸幕府

徳川家茂 徳川慶喜 坂本龍馬 西郷隆盛 大久保利通 福沢諭吉


幕末の三舟:勝海舟、山岡鉄舟高橋泥舟のこと。

水心子正秀:愛刀の一つ。


外部リンク編集

Wikipedia:勝海舟

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