北越黒川の人。
明治36年、新潟県中条町から上京し、三島中洲を師として二松学舎に学んだ。
卒業後、志を中国大陸に抱いて波涛を渉ったが、当時は清朝の末期から民国の初期に亘っていたため、政情頗る複雑な時期であった。
明治44年末、武昌の変に会い、辛亥革命の檄文を草した。
大正6年には張勲のラスト・エンペラー溥儀の復辟運動に参加し、全国勤王の士に檄文を草する。
昭和7年に満洲国が成立すると、国務院官房文書科において、回鑾訓民詔書・国本奠定詔書などの枢機文書の起草の任に没年まであたり、満洲の文権をとるに至った。
胆斎は皇帝溥儀を輔佐する総理鄭孝胥の右腕となって、満洲国建国の理念を『春秋』の撥乱反正の精神と『大学』の治国平天下の理想によって確立しようとしたのに違いない。
昭和19年7月20日、肺結核のため新京病院にて仙逝。享年満67歳。遺児は男知徳、女道子。
その結果、満洲国を日本の傀儡政権とする戦後の歴史的評価も知らず、王道楽土の理想国家を夢見て、敗戦の悲報を知ることもなかった。
満洲国政府は国務院葬の礼をもって、新京の協和会館で葬儀を挙行した。
『支那靖定ノ大経大法』『王道学』『回鑾訓民詔書衍義』などがある。