幕末期における備中松山藩(現在の岡山県高梁市周辺域)の藩儒。
概要
幕末期において赤貧にあえぎ債務超過による信用不全に陥っていた備中松山藩の財政を好転へと導いた稀代の改革者。
儒学を元に自らの身を以て清貧を貫き、努める者に報い弱き者を庇う姿勢によって改革を進めた事から「備中聖人」と称せられる。
岡山県下、特に旧松山藩域においては、岡山県における学問と福祉の祖と称される事がある。
幕末から明治にかけて、幕藩制から明治政府への転換の過渡期によって備中で盛んに興った「世直し一揆」(藩を攻撃する事によって新政府側への支持を表明した上で阿り他地域よりも新政府に対して有利になろうとした集落がいくつかあった)においては、蜂起した農民たちも「山田方谷」の名前が記された文箱や建物だけは決して壊す事無く、むしろ崇め奉ったと伝わる。
遺した文面として『方谷遺稿』などがある。経営論である『理財論』政治論である『擬対策』を著し、これを実践して改革を成した。
また「義利合一」と「至誠惻怛」という二つの考え方を示した事で知られる。(正確には義利合一を示したのは弟子の三島中洲だが、理財論と擬対策でその大元の考えを示したのが方谷である)
なおJR伯備線上にある方谷駅の由来は山田方谷からとられたもの……なのだが、住民たちが国鉄に対して希望を出した折に「人名由来の駅名は認められない」とされた事から、なんとしても方谷の名を駅名にしたい高梁の人々は「市の中心部から西方の谷だから『方谷』と言う地だ」と地方公共団体から民間まで示し合わせて地名をでっち上げて国鉄に「方谷駅」の名前を認めさせたというエピソードがある。
生き様
元は武家の生まれであったが、家は曽祖父の不祥事のために士分を保留された状態にあり、地農商の子として生を受けた。実家は菜種油の農商を営んでいたと伝わる。
士分の復活を願う父母は方谷への教育を願い、その父母の手により5歳で新見藩の丸川松隠の門下となって朱子学を学ぶ。されど実家の労苦より15歳で父母を亡くし家業の農商を継ぎ、傾きかけていた家業を見事に立て直した手腕を松山藩より評価され、その経営手腕を見込まれて士分への復活を許されて藩に召し抱えられ、23歳より30歳まで諸国遊学を許された。
この事から京都や江戸に遊学して陽明学を修めた。江戸では佐藤一斎の門に入り、佐久間象山らと親交(というか、むしろ壮絶な舌戦を行う間柄)を結ぶ。
遊学を終えた後、備中松山藩に再び仕え、新たに藩主となった先代藩主の養子板倉勝静の儒師となり、のちにその勝静の求めにより藩政改革に尽力。信用を失った藩札の改廃を行い、上士たちに緊縮財政を求めるとともに、地域の農家や工商人には副作物の栽培や職工業の殖産を奨励した。さらにはこれまで借金を重ねてきた加島屋(時代は少し違うが『あさが来た』の加野屋のモデル)を筆頭とする大阪の商人たちに備中松山藩の財政状況を偽りなく全て明らかにした上で、大阪にある備中松山藩の蔵屋敷を廃する事と、それによって可能になる無理のない返済計画を提する。(今で言うところの債務整理を行った事になる)本来であれば脅しつけたり身分を笠に着たりして強引に返済を回避しようとする大名(侍)であるはずが、それを行わずすべてを明らかにして誠実に話し合いを行おうとする方谷の姿に、大阪の商人たちも感服し、方谷の計画を認めた。この時の返済計画は50年を目処としていたが、実際には改革が順調に進み数年で完済を成し遂げている。
のちに勝静が江戸幕府の老中になるにおいては、藩政の安定が未だに半ばである事と幕府の末期状態を見抜いていた事から強く反対するも、勝静の幕府に対する忠義の心(勝静は血筋上は松平定信の孫にあたり、祖父を尊敬していた)は強く、やむなくこれを認めざるをえなくなった。しかし、その一方で勝静は方谷に備中松山藩の全てを託し、改革の害になるであろう要素を排除した後に幕府へと参じた。
しかし後、戊辰戦争において幕府の中枢にいた勝静は、そのまま幕府と命運を共にしようと幕府軍側につく。この事で朝敵となってしまった備中松山藩は朝廷側についた備前岡山藩を筆頭とする諸藩から攻撃を受ける立場となってしまった。
この際には藩主を運命を共にしようとする家臣たちに対し「それで流れる血は私や諸君ではなく領民たちのものであり、それは勝静様の望む事では無い」として抑えると共に、岡山藩との交渉においては朝廷側が勝静の行動を「大逆無道」としたものを激怒し「軽挙暴動」に変えさせた。
一方、岡山藩を中心とした備中松山征討軍の中には「方谷討つべし(責任者として切腹させろ)」との気風もあったが、方谷の人柄や彼が備中松山の地に与えた足跡を知る岡山藩の重臣たちは「方谷を討てば、この征討は備中松山藩の領民たちのみならず、その周囲の無辜の民すら皆殺しにせねば収まらないほどになる。それは後に禍根を残す事となり、決して良い事にはならない。落としどころがあるならば、そこに落ち着けるべきだ」として敵味方に分かれながらも最後まで方谷を庇い続けた。
この備中松山征討の一件において鳥羽伏見の戦いまで勝静に付き従った藩士たちが備中松山藩に戻って来たが、その一隊の責任者が事態を知り自らの首を差し出す事とした。結果、ここが落としどころとなり、備中松山城は無血開城へと導かれた。
ところが勝静は引き続き幕府軍として函館へと歴戦。方谷は密かに藩主である勝静の救出と奪還、そして勝静の隠居を画策する。(勝静が「隠居した事にする」事が無血開城の条件のひとつでもあった)勝静への忠義を思う方谷にとっては心を千々にする裏切り行為にも等しい事であったが、備中松山を、領民の血汐を戦火から守るためには他には手はなかった。方谷によって組織された部隊はついに五稜郭にて勝静を奪還し、彼を隠居に至らしめる事へとこぎつけ、無事に備中松山を戦火から解放させた。だが、この事は儒学者・方谷にとっては「不忠」という大きな汚点となってしまった。
維新後は、多くの誘いを断り、閑谷学校の再建に尽力するなど、地域に殉ずる教育者として活動を続けた。明治5年に恩赦が行われ、勝静が備中松山に戻った折、方谷は勝静にその不忠を弁解することなく、ただ泣いて詫びた。だが勝静はそれを責める事など一つも無く、方谷に「よくやってくれた」と自らの不明を詫びると共に松山と領民を死守してくれた事への感謝を述べ方谷は領主の命を忠実に守ったのだ、不忠などひとつも働いていないと、その労苦をねぎらった。
明治10年、没。多くの弟子に看取られての最後となった。方谷は最後まで地域の教育者としての道を全うしたのであった。
門下など
門下からは三島中洲・川田甕江らが出る。
また越後長岡藩の河井継之助も遊学中、方谷に師事した。
方谷の弟子たちの一部は高梁市域を中心に、その文明開化を助け岡山県下の文化を担う礎のひとつとなった。その中心となった福西志計子は幼き日に方谷より教えを受けた女児である。彼女はのちに岡山県域最初の女学校「順正女学校」を設立させ、さらには日本の福祉に大きな足跡を残した岡山四聖人(のうち特に、石井十次・留岡幸助・山室軍平)に対しても交流を持ち大きな影響を与えた。
語録
「事の外に立ちて、事の内に屈せず」(『理財論』)
「徳川幕府の命脈はおそらく永くはないであろう。歴然とした前兆が現れている。幕府を衣に例えるなら家康公が材料を調え、秀忠公が織り上げ家光公が初めて着用した。以後、歴代将軍が着用してきた。吉宗公が一度洗濯をし、松平定信公が2度目の洗濯をした。しかしもう汚れと綻びが酷く、新調しないと用にたえない状態になっている」
「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし」(三島中洲に注した言葉)