散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする
概要
明治8年刊行の『文明論之概略』により広められた言葉。明治初期より大久保利通らにより進められた上からの欧化政策と並ぶ、下からの欧化と言える。福沢諭吉が主宰する『明六雑誌』により主唱された。
地域によっては従来の生活文化や民俗風習の廃棄も行われ、この時期に海外に流出した文化財も多い。当時の日本が西洋化に熱中したのは、帝国主義時代の西洋列強との対等な外交を目指したためであり、西洋諸国の視点からは、自分たちと異質な文明を持つ日本は文明国と認められなかったためである。欧米模倣熱は「鹿鳴館時代」の到来でピークに達する。
明治20年代に至ると、日清戦争への勝利により日本は西洋列強と対等な国家と認められ、大日本帝国憲法の制定により近代国家の枠組みづくりが一段落したこともあり、在来文化を見直す動きが活発化、盲目的な開化熱は収まっていき、西洋文明と在来日本文化の融合・消化の時代に入っていく。