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概要編集

戦国時代江戸時代兵法家で「タイ捨流」の開祖。南肥後・相良家家臣。通称を蔵人佐(くらんどのすけ)。隠居後の号を徹斎(てっさい)。通称から丸目蔵人(まるめくらんど)と呼ばれることもある。




略歴編集

1540年、相良氏領であった肥後国八代郡に山本与三右衛門尉の子として誕生。

1555年、大畑に侵攻してきた島津氏との戦いで軍功を挙げ、父と共に「丸目」姓を賜る。

1556年、天草郡本渡城へ剣術の修行に行く。天草伊豆守(天草種元)の教えを受けたと言われるが誤伝と見られる。

1558年、上洛して上泉信綱の元で新陰流を学び、門下四天王に数えられる。

1564〜1565年頃、上泉信綱が将軍足利義輝の御前で演武した際の相手役を務める。

1567年、上泉信綱より新陰流の目録を与えられ、帰郷して相良氏の家臣となる。

1569年、島津氏による大口城攻め。丸目が島津家久の策に嵌って主張した作戦のため相良氏は敗れ、責任をとらされ出世の道は断たれた。

その後は武将としての立身を諦め、九州各地を兵法者と試合をして回り、新陰流を広める。それを知った上泉信綱から西国での新陰流の教授を任された。

1577年、再び上泉信綱から教えを受けるべく弟子を連れて上洛するが、上泉信綱は既に物故していた。帰郷し数年後、タイ捨流を開流。

1587年、相良頼房により勘気を解かれ、再び相良氏に仕える。剣術指南として117石を与えられた。

1629年、死去。


関連タグ編集

タイ捨流 江戸時代 相良氏

上泉信綱−剣の師匠

柳生石舟斎−剣術の同門。後に柳生新陰流を開く。

立花宗茂−有名な門弟の一人。

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