敵討ちからの本家継承
1512年(1507年とも)、安房里見家第4代目当主・里見実堯の嫡男として誕生した。幼名:権七郎。
1533年に父・実堯が甥の里見義豊に襲われて自害した事件(稲村の変)の報を受けて義堯は正木時茂(正木通綱の長男、彼の父である通綱も同じく実堯に殉じている)や北条氏綱の支援を受けて挙兵。犬懸の戦いにて勝利し、義豊を自害に追い込んだ。
同時に里見本家を吸収して安房里見家第5代目当主に就任する事に成功し、里見家の基盤を作りあげていく。
家督継承後、しばらくして安房の真里谷武田氏にて内乱が発生すると氏綱は真里谷信隆を支援するが、義堯は信隆の弟・真里谷信応を支援した事により里見家と北条家は敵対関係となる。
小弓公方の壊滅と真里谷氏の駆逐
義堯は破竹の勢いで勢力を強大化する北条家とまともに戦っても勝ち目が無いと判断したのか、小弓公方・足利義明と結んで1537年に信隆を降伏へ追いやる事に成功するが、翌1538年に起こった第1次国府台合戦では小弓足利方に参戦した。
しかし傍観した挙句に足利義明が劣勢に陥ると、足利軍を救援せずに本国安房に帰還した。この結果、義明は戦死して小弓公方は滅亡した。
やがて義堯は真里谷氏の勢力を駆逐すべく1544年に大多喜城主・真里谷朝信を倒して大多喜城を奪取し、7年後の1551年に北条方に属す真里谷信政(真里谷信隆の子)を攻撃するが、この時にかつて支援したはずの信応が信政方へ寝返ったものの、1552年11月19日に椎津城を落として信政を自刃させ、その3日後には信応を自害させる事で真里谷氏の勢力を衰退させる。
更に上総の久留里城を里見家の本拠地と定めてここに里見家の最盛期を築くが、1553年には宿敵・北条家の当主である北条氏康が武田晴信と今川義元と三国同盟を結んた事で1555年には上総西部のほとんどが北条家に奪われる事になった。
臨機応変の戦略
だが義堯は北条家に属した国人勢力を反乱を鎮圧しながらも領土の奪還を図り、越後の長尾景虎や佐竹家・宇都宮家と北条家に反抗する勢力と同盟した。翌1556年には北条軍が水軍を率いて攻め入ると里見水軍を率いて三浦三崎にて対陣するが、戦いの最中に北条水軍が暴風雨によって沈没や沖に流されるなど戦況は里見軍の勝利に終わった。
1560年には再び北条軍が攻め入るが、久留里城に籠城して抗戦してまもなくやって来た上杉軍の援軍を得て勝利して反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻した。
1564年には北条家に不満を持っていた太田康資の誘いに乗って国府台へ侵攻する。(第2次国府台合戦)緒戦こそは遠山綱景・富永直勝を討ち取って勝利するが、翌日に北条軍の奇襲を受けて大混乱し、正木信茂(正木時茂の子)・安西実元が戦死した。
敗れた義堯は子・義弘と共に安房へ退却するが、この国府台の敗戦が上総の大半を失った事で里見家を一時的に衰退してしまった。しかし2年後には失地を回復できるまでに勢力は再び盛り返している。
1567年に起こった三船山合戦では義堯は久留里城へ籠城し、北条氏照・原胤貞の攻撃を防ぎ北条軍が撤退するまで耐え凌ぎ、三船山での勝利により里見家は上総の支配に関して優位に展開する事に成功し下総にまで進出する。
1574年、久留里城にて62歳(1507年説なら67歳)で死去した。
各メディアにおける里見義堯
信長の野望シリーズ
戦国群雄伝より初登場。次作の武将風雲録で一旦は弱体化したが、シリーズが進む事に政治がやや低い事を除くと統率や知略面が80台と高めに設定されたステータスになった。北条家が隣接してるので
難易度は易しくはないが足利家(古河)や太田家よりは難しくは無い方。
戦国無双
武器:刀剣 声:藤本たかひろ(3Empのみ特殊セリフ時のボイスは草尾毅)
「仁者必ず勇あり!その身でしかと知るがよい!」(遭遇時の特殊セリフ)
子・義頼と同じく3Empからの登場ではあるが、特殊台詞が存在する。4Empでは義頼と同じく固有のデザインで登場した。