正木丹波守利英
まさきたんばのかみとしひで
名は勝英とも
生没:?~(天正19年)1591年6月2日(2月2日の説も有)
家紋は「菊水紋」
武州忍城主・成田氏長の家臣
正木氏は伊勢宗瑞に滅ぼされた相模の豪族・三浦義同の弟である時綱が安房国正木郷にて正木を称したのが始まり。里見氏の配下として活躍し、特に里見義堯の時代に活躍し越前の朝倉宗滴からも評価され「槍大膳」と呼ばれた名将・正木時茂を輩出している。ただし同じ正木姓ではあるが利英と時茂ら一族との関係などは不明。
利英は埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現埼玉県久喜市)の栢間(かやま)・ 埼玉県鴻巣市の郷地(ごうち)・笠原(かさはら)を知行していた。
天正2年(1574年)、羽生城(埼玉県羽生市)の戦いで利英は主君・氏長から「抜きんじて走り回り」と称され、 元々の恩給地であった栢間に加え郷地と笠原を与えられたとされる。
5月9日の日付で羽生城での働きに対する感状を、
6月29日の日付で郷地・笠原の領地を賜る内容の印判状を氏長よりもらっている。
また、天正14年(1586年)7月28日の日付で、下野国壬生(みぶ・栃木県壬生町)城主の壬生義雄から謝状をもらっている。
これは、当時壬生義雄は後北条氏に属しており、反北条勢力の宇都宮国綱や佐竹義重・義宣父子と戦いを繰り広げていた。
そのような状況下で、加勢人衆として鉄砲衆を引き連れて来たことによるものである。
同時に義雄から氏長への取り次ぎも依頼されている。
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに行った小田原北条攻めで豊臣軍は本城である小田原城を攻めると同時に、関東一円に広がる北条方の支城を別働隊が攻め立てた。
北条傘下にあった忍城(埼玉県行田市)も攻撃目標となった。
石田三成らにより天正18年(1590年)6月6日に城を包囲され、翌日早朝より攻撃を受ける。
忍城戦では忍城の南方にあった佐間口の守将となり、約500人の守備隊と共に戦う。
6月12日には氏長の従弟で城代である成田長親の許可を得て長束正家の陣に夜襲をかける。
大軍に見せかけるため、かがり火を消してできるだけ近づき、
一斉に大音声(だいおんじょう)をあげて仰天する敵を追いかけまわし長束隊を大混乱に陥れた。
さらに「かねて内応を約束した者よ。今こそ長束の首を討ち取れ!」と叫んだので、長束隊の兵士たちは疑心暗鬼となりますます混乱に陥ってしまい、正家は追撃され命からがら逃げるはめになった。
7月5日には総攻撃を受け行田口が危機に陥る。
それを知った利英の部隊は急ぎ駆け付け攻城軍の背面を突いたため、
浅野長吉・長束正家軍は600余人もの死傷者を出して撤退。
その後佐間口へ戻った正木隊は大谷吉継軍を押し返した。
天正18年(1590年)7月5日、本城である小田原城が開城。
11日後の7月16日に忍城も開城したとされる(開城の日付は諸説ある)。
成田氏は蒲生氏郷にお預けの身となり、一部の成田一門や重臣たちがつき従ったが、
利英は妻子だけを会津に向かわせ、自分は当地に留まり敵味方の戦没者の菩提を弔うため
佐間口付近に高源寺を建立。 開山には守天昌意和尚を迎えた。本尊は聖観音菩薩。
忍城戦の翌年6月2日に亡くなる(2月に亡くなったという説もある)。
法名は「傑宗道英」
忍城戦のすぐあと城下の寺で追善供養が執り行われた際、 名簿の一番初めに利英の名が書かれていた。
このことから城内でもかなりの有力者であったことがうかがわれる。
成田家の家臣を記録した「成田分限帳」には何種類かあり、そのうちの天正18年6月に書かれた長久寺本と呼ばれるものには、正木丹波守が城代と書かれてある。
この長久寺本には忍城籠城者(籠城者すべてではないが)が書かれてある。
おそらく城代は「成田長親」となるところが、忍城開城直後で長親はこの時点で忍城を離れていたため、残っていた利英が城代の代わりをしたということなのだろう。
上記の「城下の寺で追善供養・・・」がこのときのものではないかと思われる。
ただし6月に分限帳が書かれたということは、この時点で忍城はすでに開城したことになり、
通説の7月開城にあてはまらない。
高源寺には今も正木丹波の墓、忍城戦戦没者の慰霊碑がある。
東日本大震災では多くの墓石が倒壊するなどの被害があったが、
この正木丹波守の墓だけはびくともせず、その様相を変えることはなかった。
毎年5月8日には花まつりの他に、
正木丹波守利英公供養祭・忍城水攻戦没者彼我供養祭が執り行われる。
高源寺が移転のため土地を探して見つけたところ、
そこはどうやら石田三成の陣屋跡(本陣を敷いた丸墓山ではない)だったらしい。
何とも因縁めいた話しである。
一説には高源寺の向かいにある佐間天神社付近に邸宅があったとも、
行田市内の谷郷春日神社付近にあったとも伝えられる。
また、猛将として行田市でも人気らしく、行田市商工センターには、成田長親や甲斐姫を差し置いて唯一顔出しパネルが置いてある。
『のぼうの城』の正木丹波のキャラクターは
作者である和田竜のオリジナルであるが、資料等に書かれた上記の事柄などを
参考に練られたようである。
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