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前史編集

織田信長との対立編集

1575(天正3)年に土佐を統一した長宗我部元親は、阿波への侵攻を始めるとともに、中央での覇権を確立しつつあった織田信長の元へ使者を送った。それは自分の長子・弥三郎の烏帽子親になってほしいとの申し出であった。

この時代烏帽子親に権力者を選ぶという事は、誼を通じたいとの意思表示であり、それを了承した信長は弥三郎に「信」の一字を与え、信親と名乗ることを許すと共に、「四国での切り取り次第」つまり四国統一のお墨付きを与えた。

これ以降、信長は重臣の明智光秀を取次役として折衝を続けることになるが、阿波の旧国主である三好康長羽柴秀吉が誼を通じる(当時秀吉が交戦中だった毛利水軍に対抗する為、三好氏の水軍が必要だったとの説がある)と、信長の態度も硬化し始め1581(天正9)年6月に信長より「土佐と阿波の南半分のみ領有を認める」との書状が出された。

これに対し既に讃岐・阿波の大部分と伊予の東半分を制していた元親は、「四国の統一は信長自身が認めたことであり承服しかねる」と返答。同年中に織田・長宗我部両氏は断交し、元親は毛利氏と同盟した。


翌1582(天正10)年5月、信長の三男・信孝丹羽長秀を大将とする四国方面軍が編成され摂津に布陣し、渡海準備に入った。しかし翌6月、本能寺の変により織田政権は崩壊、信孝・長秀は辛うじて軍勢をまとめて秀吉の光秀討伐軍に参加した。

余談だが、光秀が本能寺の変に及んだ動機の一つとして、自身が取次役だった長宗我部氏との断交によって面目を潰されたため、または元親の正室の兄であった光秀の重臣・斎藤利三が自身の面目を潰されたため、光秀をそそのかしたとの説がある。


羽柴秀吉との対立編集

中央で織田家中の対立が強まりつつある中、元親は天正10年9月に阿波を完全に平定し讃岐平定に着手した。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と手を組み、秀吉方の十河存保の援軍として讃岐へ上陸した淡路仙石秀久軍を引田の戦いで破った。

勝家の敗死後も、小牧・長久手の戦い徳川家康織田信雄軍に味方し、1584(天正12)年6月、十河城(香川県高松市)を落として讃岐を平定した。

しかし讃岐侵攻と同時に進めた伊予侵攻時に、河野通直からの救援要請を受けた毛利氏が伊予へ派兵したことで、長宗我部・毛利両家は断交。さらに信雄が秀吉と和睦し、家康も自然休戦状態となったことで、周辺諸国全てが敵対勢力と化してしまった。

羽柴・長宗我部両家は四国の領土分配に関して妥協案を模索したが決裂、開戦となった。


開戦編集

1585(天正15)年6月、秀吉は病床にあった自分に代わり、弟の秀長を総大将、甥の秀次を副将とする軍勢を讃岐阿波伊予の3方面から送り込んだ。

これに対して元親は白地城(徳島県三好市)に本陣を置き、長宗我部軍4万の指揮をとった。


伊予方面編集

6月27日、小早川隆景率いる毛利軍が今治浦に上陸。後続併せて約4万の毛利軍は、東部の宇摩・新居両郡へ侵攻を開始した。対する長宗我部軍は、金子城(新居浜市)主で東予の実質的支配者の金子元宅がわずか2千の兵で抵抗した。

金子城を落とされ、次いで入った高尾城(西条市)が落城寸前になったところで、元宅は7月17日に800の残兵を率いて1万5千の毛利軍相手に打って出て、全員玉砕して果てた(野々市原の戦い)。

讃岐・阿波方面編集

讃岐へは宇喜多秀家蜂須賀正勝黒田孝高・仙石秀久ら2万3千の軍勢が上陸したが、戸波親武が城主を務めていた植田城(高松市)の守りの堅さを見て取った孝高の進言により、讃岐方面軍は主力部隊を阿波方面へ転進させた。

一方阿波へは秀長・秀次ら6万の軍勢が上陸した。阿波には長宗我部軍の主力が展開していたものの、伊予・讃岐へ戦力を分散されていたため、讃岐勢も合流し8万以上となる羽柴軍相手では籠城策しか取れなかった。それでも7月中旬までに阿波の主だった城は落城もしくは開城し、東西両面からの白地城への攻撃も目前に迫っていた。


降伏・戦後編集

阿波一宮城主だった長宗我部重臣・谷忠澄は、開城後白地城へ戻り元親に和平を進言した。激高した元親は忠澄の切腹すら命じたが、他の家臣たちも和平に同意したことで降伏を決断し、8月6日に講和が成立した。


同月、秀吉は四国の新しい国割を発表した。

・長宗我部氏は土佐1国を安堵。

・讃岐は仙石秀久に10万石と十河存保に3万石。

・阿波は蜂須賀家政(正勝の長男)に18万石と赤松則房に1万石。

・伊予は小早川隆景に35万石と安国寺恵瓊に3万3千石、来島通聡に1万4千石。


翌1586(天正16)年の戸次川の戦いで存保は討ち死し、秀久は逃亡したことにより両家とも所領没収となり、代わって生駒親正が12万6千石で入部した。

伊予では隆景も九州征伐の功績により筑前へ加増移封となり、その後に福島正則が11万石、戸田勝隆が7万石で入部し、他が秀吉の直轄領となった。さらに正則が尾張清州へ移封、勝隆が病死後に所領没収となった後は、加藤嘉明が10万石、藤堂高虎が8万石、小川祐忠が7万石で入部する等、関ヶ原の戦い直前まで領主がなかなか安定しなかった。

阿波でも蜂須賀氏の支配を是としない国人勢力が一揆を起こすなど政情不安な情勢であった。


唯一土佐のみは長宗我部氏支配で安定していたもの、その内情は嵐が吹き荒れているといったものであった。

講和条件として、戦があった際に兵3000の供出が命じられ、朝鮮出兵の際には大船の建造が命じられるなど、軍役は楽なものではなかった。また戸次川の戦いで元親が最も期待をかけていた嫡子である信親が討ち死にしたことで、人柄が変わった元親により後継者争いが起こった。さらに信親と共に次代を担うはずだった若手家臣団も軒並み戸次川で討ち死にしており、世代交代ができないまま長宗我部氏は衰退していくことになる。


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戦国時代 四国

豊臣秀吉 長宗我部元親

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