生没年 1526(大永6)年~1603(慶長8)年
官位 従四位下 雅楽頭
生駒氏は藤原北家の傍流。親正の家は、父の親重が近江六角氏傍流の土田家から養子入りしたのが始まりで、血筋としては宇多源氏になる。
また叔母に尾張の戦国大名・織田信秀の正室・土田御前がおり、その子である信長とは従兄弟の間柄になる。
生涯
1566(永禄9)年、信長の美濃攻めの際にその配下に加わり、木下藤吉郎の与力となる。1582(天正10)年の本能寺の変後は秀吉の直臣となり、1586(天正14)年までに播磨加里屋6万石へ加増される。
翌15年、仙石秀久の改易と十河存保の戦死によって空いた讃岐1国12万6千石を与えられ、主城となる高松城と支城の丸亀城、並びに城下町の整備に努めた。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、高松にいた親正が西軍、会津征伐に参加していた嫡男の一正が東軍に参加した結果、親正の西軍参加は不問に付された。
1603(慶長8)年に親正が没した後、曾孫の高俊の時にお家騒動の為改易。堪忍料として与えられた出羽矢島(秋田県由利本荘市)8千石の交代寄合となり、明治維新の際に高直しで1万5200石の大名と認められ、華族令公布後男爵に叙せられた。