別名は赤穂加里屋城。「忠臣蔵」の舞台の一つとしても知られる。構造は変形輪郭式海岸平城に分類される。
概要
前史(赤松・浦上・宇喜多氏時代)
室町時代の赤穂には享徳年間(1452~55)に播磨赤松氏一族の岡光広(豊前守)が築いた加里屋古城が存在したが、現在は遺構も無く廃城になった時期も判っていない。
戦国時代の赤穂は赤松氏と浦上氏のせめぎ合いの舞台となったが、1575年に浦上宗景が宇喜多直家に追放されてからは宇喜多氏が領有したと思われる。
掻上城築城(池田氏時代)
その後の赤穂は生駒親正が領主だったほんの一時期を除けば宇喜多秀家が領していたが関ヶ原の戦いで敗れ秀家は改易・流罪となる。赤穂は三河吉田から姫路に移封された池田輝政が領有し弟の長政が赤穂領主に任ぜられた。長政は赤穂城の元となる掻上城を加里屋に築城したが、長政はのち備前下津井に転封されたため赤穂は姫路藩が代官支配を行った。1613年に逝去した輝政の後を継いだ長男の利隆は継母・良正院※1の化粧料である宍粟郡・佐用郡・赤穂郡を良正院の長男で岡山藩主を務める弟の忠継に分与したため岡山藩の所領になった。忠継と良正院が没した1615年に輝政の五男・政綱※2は次兄・忠継の跡を継いだ三兄・忠雄から赤穂郡を分知され赤穂藩を立藩した。政綱が1631年に早世した後は弟の輝興が継いだが1645年に刃傷沙汰を起こして改易された。
※2:実際は忠継が五男、忠雄が六男、政綱は八男
赤穂城築城(浅野氏以降)
赤穂池田氏改易後は芸州藩浅野家の分家である常陸笠間藩主の浅野長直が赤穂へ移った。
居城の掻上城が簡素な造りだったので、長直は1646年に甲州流軍学者の近藤正純に赤穂城の設計図面を作成させ、1648年に築城願を幕府へ提出し同年から築城に着手。1652年に山鹿流軍学の創始者である山鹿素行が赤穂に立ち寄り7ヵ月の滞在中に縄張の改修を指示したとも言われこれにより二の丸に設計変更が加えられたとされ、赤穂城は13年の歳月を掛け1661年に竣工した。なお、素行は1666年に自らが著した『聖教要録』が朱子学批判であることを理由に赤穂へ配流となっている。
縄張には横矢掛りが多く設けられ鉄砲による十字砲火が可能な造りとなっている。平城だが千種川から豊富な水を引き入れ海城としての性格も有し、平和な江戸時代においては珍しいかなり実戦的な構造であった。
しかしながらわずか5万石の浅野家にとって城の大改修は金銭的に厳しく、天守台は築かれたものの天守の建造は見送ったとされる。
そして元禄赤穂事件で浅野長矩が切腹に追い込まれ赤穂浅野家は断絶。その後は近隣の龍野藩預りとなりのち永井氏や森氏が入封し紆余曲折はあったが明治維新まで続いた。
狐の伝説
赤穂城には築城の際の狐の伝説が存在する。
赤穂の地で平和に暮らしていた狐たちだったが、ある日人間たちが突然狐たちの土地に無断で城を建て始めた。
怒ったホンスケを代表とする狐たちは赤穂城の築城の邪魔を始めるのだった。
最終的には狐との話し合いの末、稲荷神社を建立し、狐たちの安住の地を約束することで和解したという。