概要
関ヶ原の戦い後に池田輝政が播磨姫路52万石を領したことが始まり。要地ゆえ藩主の入れ替わりが多く、8家が藩主を務め人数に関しては日本一多い。その中の一人松平直矩は「引っ越し大名」と呼ばれ、12回も移封を経験し姫路藩主も2回務めている。
江戸中期に酒井家が入りようやく安定した。このように藩主の入れ替わりが多い藩はほかに山形藩がある。
最初の輝政の時代は52万石だったが、輝政死後は一部の領地を岡山藩に分知し本多氏(一期目)が去ってからは播磨には明石藩・龍野藩・赤穂藩などが林立したこともあり石高も最終的に15万石まで減った。このため非常に大きな姫路城を有していながら財政は厳しかった。1787年から50年の長きにわたって酒井家の家老を務めた河合寸翁が改革に取り組み藩の借金を完済した。
歴代藩主
池田家
- 池田輝政:恒興の次男。三河吉田より移封。52万石だが一族を合わせると90万石相当に達し「西国将軍」と呼ばれた。
- 池田利隆:輝政の長男。異母弟・忠継の岡山藩に10万石を分知したため42万石。
- 池田光政:利隆の長男。家督相続時8歳だったことを理由に、因幡鳥取32万5千石へ減転封。
本多家
- 本多忠政:本多忠勝の長男。伊勢桑名より加増移封。表向き15万石だが千姫と再婚し姫路新田藩主となった嫡男・忠刻にも10万石を与えられ、次男・政朝は父・忠勝以来の上総大多喜から龍野5万石に移され、娘婿・小笠原忠真も信濃松本から明石10万石に移されたため実質40万石の大名に相当した。
- 本多政朝:忠政の次男。姫路新田藩主を経て姫路藩主になる。後任の姫路新田藩主の政勝に4万石、弟の忠義に5万石を与えた。従兄弟の忠真が豊前小倉に移り、政朝の後任の龍野藩主だった忠真の甥の長次も中津に移り龍野6万石は天領になったため実質24万石相当になる。
- 本多政勝:忠政の弟・忠朝の次男で政朝の養子。大和郡山へ移封。晩年、お家騒動の火種を残した。
奥平松平家
結城松平家
※以降の藩すべて15万石
榊原家
結城松平家
本多家
榊原家
結城松平家
酒井雅楽頭家
- 酒井忠恭:酒井忠勝の玄孫。前橋より移封。
- 酒井忠以:忠恭の長男・忠仰の長男。
- 酒井忠道:忠以の長男。
- 酒井忠実:忠以の次男。
- 酒井忠学:忠道の八男。
- 酒井忠宝:忠実の五男・忠讜の長男。
- 酒井忠顕:忠実の六男・三宅康直(三河田原藩主)の長男。
- 酒井忠績:酒井忠佳(酒井忠世の曾孫で旗本)の子孫。
- 酒井忠惇:忠績の弟。
- 酒井忠邦:忠恭の四男・忠温(上野伊勢崎藩主)の玄孫。