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本多忠政

ほんだただまさ

本多 忠政(ほんだ ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。伊勢国桑名藩の第2代藩主。後に播磨国姫路藩の初代藩主。忠勝系本多家(平八郎流)宗家2代目として一族の全盛期を築いた。
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生涯編集

天正3(1575)年、徳川家康の重臣・本多忠勝(後に桑名藩の初代藩主)の長男(第3子)として生まれる。同母姉に真田信之の正室となる小松姫がいる。

天正18(1590)年の小田原征伐に初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てた。慶長3年(1598年)3月、従五位下に叙せられて美濃守と称した。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第2次上田合戦にも従軍。慶長14(1609)年6月に父が隠居したため、家督を相続して桑名藩の第2代藩主となる。

慶長20(1614)年からの大坂の陣でも戦功を挙げて、戦後5万石加増の上で姫路城主となった。この時嫡男の忠刻も忠政と別に10万石を与えられ、次男の政朝が播磨龍野5万石を、娘婿の小笠原忠真が播磨明石10万石を領していたため、忠政自身が監督する所領は実に40万石近くに及び、平八郎流の最盛期を迎えた。

寛永8(1631)年に死去。忠刻が寛永3(1626)年に早世していたため、政朝が継いだ。


系譜編集

忠政は家康の孫娘で松平信康の次女妙高院との間に3男2女を授かった。忠刻とその長男が早世したため、政朝の系統が嫡流となるが、孫の代に政朝と忠政の弟の忠朝の子孫による内紛が起こり家運は衰退してしまう。

家系的には平八郎流同士や同じ松平信康の娘婿である小笠原秀政の子孫との近親結婚が多く、女系子孫による養子相続も多い。

主な女系子孫には徳川斉昭慶喜父子、三木谷浩史細川護熙らがいる。


関連タグ編集

江戸時代 本多忠勝 徳川家康 松平信康 徳川秀忠

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