概要
初代藩主は本多忠勝、二代目は本多忠政、その後は久松松平家、奥平松平家が藩主となり、文政6年(1823年)に老中松平定信の子で久松松平家の松平定永が転封してきて以降は久松松平家が廃藩まで藩主となる。
東海道唯一の海路の港町として栄えた。蛤は当時から知らわれる名物だった。ただし焼き蛤が名物だったのは桑名の町ではなく隣の富田だ。富田も桑名藩内だったことから「桑名の焼き蛤」として広まった。
幕末には歴史の表舞台にたびたび登場する。ただし登場するのは藩主の話ばかりで、藩内の話はあまり多くない。
婿養子で藩主の松平定敬は京都所司代を務め、会津藩主で京都守護職の松平容保は定敬の兄だった。この頃の歴史の中心人物で水戸徳川家の血統だった一橋慶喜・容保・定敬は名字または藩名から一字ずつを取って一会桑と呼ばれる。
戊辰戦争の開戦後は関係の深い旧幕府側につくか形成の有利な新政府側につくか藩内でもめた。最終的には籤で決めることになり、結果は旧幕府側と出た。しかし籤を引いても藩内の意見はまとまらず、最終的には桑名城は新政府軍に明け渡された。戦争の影響で定敬は桑名へ数年間帰れなくなってしまった。定敬は大坂→江戸→柏崎→会津若松と移動し、戦線の後退によって東北を北上し箱館に着いた。家老の酒井孫八郎が箱館まで来て説得し、定敬は箱館を脱出するため船に乗り上海に渡った。しかしお金がなくなったため横浜に戻り降伏した。
歴代藩主
本多氏:10万石
久松松平氏:11万石
- 定勝:徳川家康の異父弟。遠江掛川5万石より加増移封。
- 定行:定勝の次男。伊予松山15万石へ加増移封。
- 定綱:定勝の三男。美濃大垣6万石より加増移封。
- 定良:定綱の次男。
- 定重:定行の長男・定頼の三男。越後高田11万3千石へ加増移封。
奥平松平氏:10万石
- 忠雅:松平忠明(家康の外孫)の玄孫。備後福山10万石より移封。
- 忠刻:忠雅の三男。
- 忠啓:忠刻の次男。
- 忠功:徳川宗将(紀州和歌山藩主)の七男。
- 忠和:宗将の九男。
- 忠翼:忠雅の次男・井伊直存(越後与板藩主)の孫。
- 忠尭:忠翼の長男。武蔵忍10万石へ移封。