松平定敬
まつだいらさだあき
生没年:弘化3年12月2日(1847年1月18日)~明治41年(1908年)7月21日
美濃国高須藩主・松平義建の八男として江戸市谷の江戸藩邸で誕生。
次兄に尾張藩主・徳川慶勝、六兄に会津藩主・松平容保、次弟に高須藩主・松平義勇がいるが、この四兄弟は後に「高須四兄弟」と呼ばれ、歴史に名を残すこととなる。
安政6年(1859年)、桑名藩主・松平猷(定猷)が死去したことにより、14歳で猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ桑名藩主となり、従五位下越中守に叙任される。
文久3年(1863年)、14代将軍・徳川家茂の上洛の際には、京都警護を勤めるために随行。元治元年(1864年)、参預会議の崩壊後は禁裏御守衛総督・徳川慶喜、京都守護職の兄・容保とともに「一会桑体制」を構成した。同年に起きた禁門の変では京都所司代として会津藩や薩摩藩などとともに長州藩と対峙、軍事的勝利をおさめる。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、前の15代将軍・慶喜は容保と定敬の反対を押し切ると海路江戸へと引き返し、兄弟は寛永寺に謹慎する慶喜から見捨てられることとなった。
定敬は桑名藩の飛び地領・柏崎に身を寄せた後、会津へと渡り、その後、仙台で榎本武揚の艦隊と蝦夷地へと落ち延びることとなった。
明治2年(1869年)5月18日、新政府に降伏し、明治5年(1872年)1月6日、赦免される。
明治6年(1873年)、アメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンに英語を学び、明治7年(1874年)、渡米。明治10年(1877年)に起きた西南戦争では旧桑名藩士を率いて西郷隆盛率いる薩軍と戦う。
明治27年(1894年)1月24日、兄・容保のあとを継承し、日光東照宮宮司就任。
明治29年(1896年)12月26日、日光東照宮宮司を辞す。
明治41年(1908年)7月21日、死去。
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京都守護職・会津の松平容保を実の兄にもち、幕末京都で所司代をつとめた桑名の松平定敬。無名ですが波乱万丈の生涯を歩んだ年若い殿への愛のゆえに、こんな妄想を書いてしまいました。ワタシも若かったな… 箱館で、土方さんとこんな場面があってもいいよね…2,458文字pixiv小説作品