説明
幕末の京都において、徳川慶喜と松平容保と松平定敬の3名によって形成された体制のことである。
由来はそれぞれが一橋家・会津藩・桑名藩出身で、その1文字目をとって付けられ、当時からもそう呼ばれていた。
長州藩による尊王攘夷運動への対策として結成され、京都の治安維持にあたっていた。
スタンスとしては公武合体に近く、八月十八日の政変や禁門の変を経て、京都における政治力を増していく。
しかし長州征伐に失敗するとその勢力にも翳りが見えはじめる。
しまいには王政復古による明治新政府の構想からは外れ、戊辰戦争では朝敵とされてしまった。