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千姫

せんひめ

江戸時代初期の女性。徳川秀忠の娘、豊臣秀頼の正室、のち本多忠刻の正室。
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曖昧さ回避編集

  1. 実在の人物(江戸時代初期)。徳川秀忠女、豊臣秀頼室、本多忠刻室。 → この項目で解説
  2. 薄桜鬼」の登場キャラクター。 → 千姫(薄桜鬼)
  3. 戦国ランス」の登場キャラクター。 → 戦姫(ランス)
  4. 百花繚乱サムライガールズ」の登場キャラクター。 → 徳川千
  5. 陰陽師本格幻想RPG」の登場キャラクター。 → 千姫(陰陽師)

概要編集

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の長女。母はその正室で「浅井三姉妹」の三女として知られる(崇源院)。


慶長2年(1597年)4月11日、山城国伏見城内の徳川屋敷で誕生。


慶長8年(1603年)に江戸幕府誕生と前後して、豊臣家側の慰撫を目的とした政略結婚により豊臣秀頼のもとに嫁ぐ。当時秀頼は10歳、千姫も6歳という共に幼齢での婚姻であったものの夫婦仲は良好だったらしい。また、秀頼の生母は江の姉で三姉妹長女の茶々(淀君)であるため、両者は従兄妹の関係でもある。


慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡するに際し救出される。

秀頼との間に子は授からなかったが、このとき処刑されそうになった秀頼と側室の娘で千姫からみると従姪にあたる(後の天秀尼)を千姫は自らの養女にすることで助命している。


元和2年(1616年)、徳川家譜代大名中の名門・本多家の嗣子であった忠刻(本多忠勝の孫,その母は松平信康と徳姫との娘である熊姫であるため,千姫にとっては従姉の子)に再嫁した。忠刻との間には1男1女を授かるが元和7年(1621年)に長男・幸千代が3歳で没し、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没してしまい、千姫は娘・勝姫と共に本多家を離れ江戸城に入り、以後は出家し天樹院と号した。


その後は2年ほど娘と二人暮らしを続けるが、寛永5年(1628年)に勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。正保元年(1644年)には江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。

自身の存命中に誕生した孫の池田綱政は徳川秀忠の曾孫にあたることで、幕府との関係が良く、綱政本人と後継の池田継政が比較的長命を保ったことで岡山池田家は長期に亘り繁栄した。綱政が子宝に恵まれ、分家が多くあることから、子孫の数は多い。


特に曾孫の池田政純は娘・静子が兄の継政の養女となって一条道香に嫁ぎ、その間に娘・八代君をもうけた。この八代君は、水戸藩主徳川治保の正室にして最後の征夷大将軍徳川慶喜の祖父で水戸藩主徳川治紀の生母である。八代君の血縁により水戸藩主家から岡山池田家に養子が迎えられたが諸事情により分家から継政の男系子孫が養子として迎えられ、別家として存続した。この他治紀の血統は慶喜やその兄弟たちも含めた複数の系統が女系も含めて現在まで存続している。


寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去。享年70。娘の嫁ぎ先である岡山池田宗家は2012年に当主の池田隆政が死去したことで断絶した。元総理大臣の細川護煕の父方の祖母が同家出身で隆政の父方のおばにあたる。





関連タグ編集

江戸時代 

父:徳川秀忠

母:お江

祖父:徳川家康 浅井長政

祖母:於愛の方 お市

伯母:茶々 初姫

従兄弟かつ夫:豊臣秀頼

大伯父:織田信長

姫路城 - 再婚した本多忠刻とともに住んだ。城内の化粧櫓には「千姫化粧の間」が残されている。

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