生没年 1595(文禄4)年~1650(慶安3)年
官位 従三位 参議・左近衛権中将・越前守
経歴
1603(慶長8)年、江戸に参勤した際に叔父で次期将軍が決まっていた徳川秀忠と謁見する。秀忠は大いに気に入り、徳川家の故地である「三河守」と呼んだという。それもあってか、1605(慶長10)年に三河守に任官している。
1607(慶長12)年、父秀康の死により越前福井藩67万石を相続。
1614(慶長19)年からの大坂の陣では軍を率いて参加。特に夏の陣では、真田信繁を討ち取る功績をあげたが、戦後の論功行賞では従四位から従三位への昇叙などで終わった目に不満を持つ結果となった。
そのせいか次第に酒におぼれるようになり、領民や家臣を惨殺して楽しむなど狂乱の体をなすようになっていった。
1623(元和9)年、秀忠の裁定により忠直は隠居を命じられ(もし応じない場合は加賀藩と秋田藩から討伐軍を出すよう要請を出している)、同母弟で越後高田藩主の忠昌が福井藩を継ぎ、忠直の嫡男・仙千代(松平光長)は忠昌に代わって高田藩を継ぐことになった。
忠直は隠居の後、豊後府内藩へ配流となり、1650(慶安3)年に豊後で死去した。
外部リンク
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大分市…余世を過ごした配流地。市内浄土寺に墓(一伯公廟)があり、また大坂夏の陣で真田信繁を討ち取った際に忠直が鹵獲した信繁の乗馬「真田栗毛」の墓も大分市碇山にある。