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松平光長

まつだいらみつなが

松平光長とは江戸時代前期〜中期の大名。松平忠直の長男。越後高田藩主となるが後継者問題で「越後騒動」を引き起こした。
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江戸時代初期〜中期の大名。越後高田藩主。「越後騒動」を引き起こしたことでも知られる。

越前松平家2代当主・忠直の長男で結城秀康の孫。


プロフィール編集

生没年:1616(元和元)年~1707(宝永4)年

幼名:仙千代

官位:従三位 右近衛権中将

父:松平忠直

母:高田殿(2代将軍徳川秀忠の娘・勝姫)


経歴編集

父・忠直の配流と越後高田藩主就任編集

1623(元和9)年、忠直が乱行の繰り返しにより隠居と豊後への配流処分となり、代わって越後高田25万石を治めていた忠直の異母弟・忠昌越前北ノ庄(のち福井に改名)藩主に、仙千代は忠昌に代わって高田藩主となり三代将軍徳川家光の偏諱を受け光長と名乗った。ただし元々宗家筋だったこともあって、忠昌の死後に後を継いだ光通の正室に娘の国姫を嫁がせた。光長は母の勝姫と共に伯母の千姫を介して光通に圧力を掛けたり、国姫が男子を産めないことを苦に自殺した後は高田殿と共に光通の庶子である直堅の命を狙い、直堅は福井を出奔ぜる得なくなった。そして勝姫母子の介入で精神に変調をきたした光通は遺言状を残し自殺したため福井藩に禍根を残すことになった。高田藩は元々幕府から警戒されていたが勝姫と光長のやりたい放題もあり印象はさらに悪くなったという。


領内統治に関しては筆頭家老小栗正重や次席家老荻田長磐らがいたこともあり高田を富ませることには成功した。しかし1666年(寛文5)12月)に発生した越後高田地震で領内に甚大な被害を蒙ったが、何より痛手だったのは先述の小栗・荻田の家老衆を始めとする多くの家臣団が死亡したことであり人材不足に陥ってしまった。


越後騒動編集

1674(延宝2)年、嫡男の綱賢が若死にしほかに男子がいなかったため後継者がいなくなってしまった。

そこで後継ぎとして弟である永見長頼(忠直の次男)の子・万福丸を養嗣子とすることになり綱国と名を改めた。

しかし養子候補を選ぶ際に筆頭家老の小栗正矩(正重の子)派と次席家老の荻田本繁(長磐の子)派の対立が表面化し、光長の要請により幕府大老酒井忠清から和解するよう申し渡されるも収まらず、1679(延宝7)年に荻田派の永見長良(忠直の三男)と本繁の一族がそれぞれ長州藩出雲松江藩に預けられ、小栗派にはお咎めなしとされた。

この不公平な処分に不満を持った藩士200人が脱藩する騒ぎとなり、翌8年に4代将軍・徳川家綱が亡くなり弟で上野館林藩主だった徳川綱吉が将軍に就任すると再審が行われることになった。1681(延宝9)年、新将軍綱吉直々に長良・正矩・本繁への吟味を行い、その結果

  • 小栗正矩と嫡男の大六は切腹
  • 永見長良と荻田本繁は八丈島へ流刑(2人とも1701(元禄14)年に死亡)
  • 高田藩は改易。光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩へ預かり

という処分となった。さらに前回の処分に関わった播磨姫路藩主松平直矩(忠直の異母弟・直基の長男)は豊後日田へ15万石から7万石へ減転封、出雲広瀬藩主・松平近栄(忠直の異母弟・直政の次男)は3万石から1万5千石へ減封の処分を受けた。

1687(貞享4)年、赦免と新たに合力米3万俵が与えられた。1693(元禄6)年に綱国が廃嫡され新たに直矩の三男・長矩(後の宣富)が養嗣子に迎えられた。

1697(元禄10)年に隠居し、翌11年に長矩が美作津山10万石を与えられ再興されることになった(津山松平家)


外部リンク編集

松平光長 - Wikipedia

関連タグ編集

大名 江戸時代 越後(津山)松平家 越前松平家 高田藩

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