生没年 1636(寛永13)年~1674(延宝2)年
官位 従四位下 左近衛権少将
経歴
1645年(正保2)年に父忠昌の死去に伴い福井藩主となるが、幼少のため幕府から「後見役」をつけられることになった。
元服後は祖父・秀康以来の宿老たちが補佐したが、隠居や死去によって新たな家臣達によって藩政を行った。武断的な気質が強かった政務を改めたほか、学問などは伊藤坦庵を招いて発展させるなど藩に大きく影響を与えた。しかし天災の影響で財政危機に追われ、幕府から許可を得て藩札を発行した。
後継問題
光通には側室との間に男子・権蔵がいたが、正室である国姫との間には娘しか生まれなかった。
光通としては権蔵に跡を継がせたかったが、国姫の父親である松平光長(越後高田藩主、忠昌の兄・忠直の子)やその母で2代将軍・秀忠の娘・勝姫が猛反対した。さらには国姫が男子を生めないことを苦に1671(寛文11)年に自殺し、1673(延宝元)年には権蔵が叔父である直良(越前大野藩主、秀康の6男)の元へ出奔するという事件が起きる(高田藩側が「国姫の死の原因が権蔵にある」と命を狙いだしたのが理由とされる)。
これらのことで精神に変調をきたした光通は、「異母弟・昌明(越前吉江藩主)に跡を譲る」との遺書を残し自殺した。
光通の跡目をめぐっては権蔵改め直堅、昌明、昌明の異母兄・昌勝(越前松岡藩主)の誰にするかで揉め、最終的に光通の遺書が決め手となって昌明改め昌親が福井藩を継ぐことになった。