経歴
文化11年7月29日(1814年9月12日)に江戸城において、将軍徳川家斉と側室八重との子として出生。幼名は銀之助。
母は清水徳川家家臣・牧野多門の娘で土屋氏養女として大奥に入った人物。徳川家慶や徳川斉順の異母弟で、越前福井藩主・松平斉善の異母兄。清水徳川家4代目当主徳川斉明や鍋島直正の最初の正室である盛姫の同母弟、蜂須賀斉祐の同母兄にあたる。
津山松平家養子入り
同母兄・斉明が清水徳川家の当主となった翌年の文化14年(1817年)に津山藩主松平康孝の婿養子となる。
津山藩主家である津山松平家は徳川秀忠の兄ながら将軍になれなかった結城秀康の長男・松平忠直の長男にあたる松平光長の家系(血統は広瀬松平家)であったが、越前騒動や越後騒動、末期養子の禁への抵触の結果、5万石の大名に転落しており、これに不満を持った康孝が10万石への復帰を交換条件に幕府の要請を受けた結果の養子縁組であった。これにより津山藩は5万石から10万石への復帰に成功する。
文政5年(1822年)に津山藩主嗣子として初お目見えを得、文政7年(1824年)に元服して諱を斉民に改めて従四位上侍従・三河守に叙任される。ちなみに三河守は津山松平家としては忠直以来久しぶりの任官で、以降は津山松平家嗣子が任官された。ついで文政9年(1826年)に正四位上左近衛権中将・越後守に転じる。
津山藩主
天保2年(1831年)に康孝の隠居を受けて津山藩主に就任する。このときに養父は家斉の偏諱を受けて斉孝と改名した。翌天保3年(1832年)に津山藩に初入国する。
天保6年(1835年)に異母弟の松平斉善が末期養子として越前福井藩主を相続したためか、老中・大久保忠真に対して内願という形で、津山松平家が越前松平家の宗家であり、実家の将軍家との約束であることを理由に10万石から福井藩と対等の30万石への加増と三位の位を要求するも断られる。その後天保8年(1837年)に家斉が隠居すると、秀康、忠直、光長らが用いた「金十文字投鞘対鑓」の使用の復活や小豆島の一部を与えられた。
天保6年(1835年)に養父の斉孝が、天保12年(1841年)に実父の家斉が死去する。弘化4年(1847年)に養父の実子である松平慶倫を養嗣子とし安政2年(1855年)に隠居して確堂と号する。
隠居後
隠居してほどない安政4年(1857年)にかねてから病弱だった甥の徳川家定の体調が悪化し、同じく斉民の甥にあたる徳川家茂を押す南紀派と徳川慶喜を押す一橋派に分かれる将軍継嗣問題が発生する。ちなみに斉民は血統上は家定や家茂の叔父である上、当時40歳前半と血統と年齢で問題はなかったものの、御家門であっても徳川御三家・御三卿でなかったためか、斉民を押す派閥は特になかった。
本人も幕政に参画する気はなかったらしく、安政5年(1858年)に家定が死去し家茂が将軍となるが、大老井伊直弼から徳川慶頼とともに家茂の後見者として斉民の清水徳川家相続を打診されるが、状況によっては将軍への道が開けるこの打診を辞退している。
文久3年(1863年)より当時津山にいた斉民に対して幕府から毎年1万俵の隠居料が給される。維新の動乱の際には、他藩同様に佐幕と勤皇で藩内が混乱するも勤皇に藩内の意思を統一した。
江戸開城後は、明治政府より徳川家達の後見人に任じられる。後に、徳川慶喜の娘の養育も任せられている。維新後は徳川宗家の家政に関与し、陰で「第16代様」と呼ばれていたらしい
徳川昭武が水戸徳川家を継いで清水徳川家当主が空席になると、明治3年(1870年)に子の康民とともに清水徳川家の相続候補に上がったが辞退している。明治14年(1881年)に従三位に昇進し、明治15年(1882年)に麝香間祗候の名誉職を与えられた。
明治24年(1891年)3月24日に78歳で死去。52人の兄弟姉妹どころか父・家斉を含めた徳川歴代将軍15人よりも長寿であった。
人物
天保6年(1835年)の件や儒教道徳的に叔父が甥の跡を継ぐことを嫌う風潮もあってか安政5年(1858年)に幕府が調査した際には評判は良くなかったが、誠実な性格だったらしく、徳川慶喜に信頼されていた。また天璋院が死んだ際には「御姿を仰ぐも悲しぬかつけは 落るなみたに雪もきえつつ」と詠んでいる。