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鍋島直正

なべしまなおまさ

幕末に活躍した佐賀藩主、人材を育成し、洋学を奨励した名君として知られる。佐賀の七賢人。

概要

生没年 文化11年12月7日(1815年1月16日)~明治4年1月18日(1871年3月8日)

鍋島直正とは幕末に活躍した第10代肥前藩主である。第9代藩主・鍋島斉直の十七男。号の閑叟(かんそう)から鍋島閑叟とも称す。


生母は斉直の正室で、鳥取藩6代目藩主池田治道の三女にあたる幸。鳥取藩主池田家は徳川家康の女系子孫であるために直正は徳川家康と池田輝政毛利元就の女系子孫にあたる。ちなみに島津斉彬は母方従兄弟、伊達宗城は同母姉の再婚相手である。


最初の正室は徳川家斉の娘・盛姫で徳川家慶の異母妹、松平斉民の同母姉であり、継室は徳川斉匡の娘で松平春嶽の同母妹にあたる。


種痘の普及、均田制、焼き物等特産品の生産、蘭学の普及、反射炉を建設すると同時に、藩政改革を行って財政再建を成功させ、日本初の実用的蒸気船・凌風丸を完成させた。

文久元年(1861年)に家督を嫡男・直大を譲った後も強大な権力をもち、脱藩した大隈重信、副島種臣、江藤新平に対し本来は切腹を命じるところを謹慎処分という寛大な処置を施し各藩の藩士が処刑で命を落とすなか、肥前藩士が維新まで非業の死を遂げたものはいなかった。戊辰戦争ではアームストロング砲といった圧倒的な戦力を持ちながら鳥羽・伏見の戦いで薩長両藩が旧幕府軍に勝利するまで中立を保った後に、官軍についたことで周囲から日和見主義を揶揄されて「肥前の妖怪」と呼ばれた。

前述の通り、文久元年(1861年)に引退したが岩倉具視に請われて議定、大納言、開拓使長官を務めたが持病の肺炎悪化で明治4年(1871年)に没した。


徳川慶喜は回想でずるいやつと評している。


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明治維新 幕末 鳥羽・伏見の戦い

鍋島直茂…佐賀藩祖。食えなさとかある意味似た者同士。

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