概要
幕府の旗本山口直勝の次男(直勝の祖父は宇和島藩5代藩主・村候)で、文政12年(1829年)に7代藩主・宗紀に婿養子入りし弘化元年(1844年)に藩主に就任した。蘭学に明るい大村益次郎を宇和島に招き蒸気船を作らせた。安政5年(1858年)に発生した安政の大獄によって藩主の辞任と謹慎を命じられた。その後、謹慎が解かれると再び幕政へ復帰してハリー・パークスなどイギリス公使を相手とする外交役に徹するようになる。
明治維新後は新政府に議定に任命されて外国事務総督・外国官知事・大蔵卿などを務め、七十七銀行設立などにも関わった。
また、長崎の出島(オランダ商館)で博物学的研究を行っていた「出島の三学者」の一人であるドイツ人の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘であり、日本初の女医である楠本イネを厚遇し、彼女に改名を指示し『楠本伊篤(くすもと いとく)』の名を与えた。
長男の幸民は信濃松代藩主・真田氏の、次男の宗敦は宗家である仙台藩主家へ養子となり(宗敦は戊辰戦争敗戦後に廃嫡となり、別家を立てる)、宗城の跡は婿養子入り後に生まれた、宗紀の三男・宗徳が継いだ。
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