概要
文化元年5月5日(1804年6月12日)生まれ。諱(本名)は譲。
奥州水沢藩士の家に生まれ、蘭学者であった叔父・高野玄斎の養子となる。
10代のころから父の反対を押し切り江戸で学び、長崎でシーボルトに師事した。
シーボルト事件によりシーボルトが国外に追放され、弟子も大勢捕らえられたが彼自身は難を免れている。
天保元年(1830年)には武士の身分を捨てて町医者となり、蘭学塾を開く。渡辺崋山らとともに尚歯会を結成。
幕府の異国船打ち払い令を批判し開国を説いたため、天保10年(1839年)蛮社の獄で弾圧を受けた。
永牢を言い渡されたが弘化元年(1844年)6月30日に牢屋敷の火災に乗じて脱獄。宇和島藩主伊達宗城の庇護を受けて洋書の翻訳や藩の軍備の洋式化などに貢献した。
しかしそこにも追っ手が来るとの知らせがあったため、硝酸で顔を焼いて人相を変え、沢三伯と改名し、一度は江戸から脱出して故郷に戻ったが後に江戸に戻り、町医者を開業した。
しかし 嘉永3年10月30日(1850年12月3日)、何者かに密告されて捕縛されそうになり自刃したとも、捕縛の際に殴打されたせいで護送中に死亡したともいわれている。近年の見方では、殴打されたせいで命を落としたとされるが、そうなると奉行所としての風格が落ちるため、奉行所が長英が自殺したと虚偽の報告をしたのではないか?といわれる。
1898年(明治31年)7月4日、正四位を追贈された。
主著に『戊戌夢物語』、獄中記『わすれがたみ』『三兵答古知機』などがあり、オランダ語文献の翻訳作業も数多く行っている。