概要
田原藩士の子に生まれ。父親が養子であることから扶持が削られたことや藩の財政難から実輸入はわずか12石足らずで、この厳しい生計を助けるために得意だった絵を売って支えるなど苦難な少年時代を過ごす。
後に谷文晁に入門。20代半ばには画家として著名になったことでようやく厳しい生活から脱した。
16歳になって正式に藩の江戸屋敷に出仕。納戸役・使番など、藩主に近い役目だった。
1825年10月に三宅康明が28歳で病死。藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、姫路藩から養子を迎えようとすると、崋山はこれに反発したが、結局は養子・三宅康直が藩主となってしまう。
崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送るが、その一方で藩首脳部と姫路城双方と交渉して、後日に三宅友信の息子と康直の娘をさせ、次の藩主とすることを承諾させている。
また藩首脳部は反対派の慰撫の目的もあり、友信に前藩主の格式を与えて優遇。崋山は側用人として友信と親しく接していた。
1932年5月に田原藩の年寄役末席(家老)に就任した崋山は藩政改革に尽力。格高制の導入、支出の引き締め、農学者大蔵永常による殖産興業などを実施した。
1836年に生じた天保の大飢饉では、あらかじめ食料備蓄庫を築いたことや家中に倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させたことで、貧しい藩内にもかかわらず餓死者を一人も出さないことに偉業を成し遂げ、全国で唯一幕府から表彰を受けている。
1838年、昨年のモリソン号事件を知った崋山は打ち払い政策を批判する『慎機論』を書く。
だが、蛮社の獄における家宅捜査でこの原稿が見つかり、蟄居の処罰を受けることになる。
1841年に崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、代金を生活費に充てることとなった。だが、悪い風聞が立ち、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は池ノ原屋敷の納屋で切腹した。