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蛮社の獄

ばんしゃのごく

1839年(天保10年)の水野忠邦政権下において発生した言論弾圧事件。蘭学者の高野長英と渡辺崋山が自らの著書において、モリソン号事件における幕府の対応や異国船打払令について厳しく批判したことで処罰された事件。
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事件のあらまし

捕縛された高野長英渡辺崋山は『尚歯会』という蘭学を学ぶことを目的としたサークルに所属していた。

1837年(天保8年)に外国船が浦賀に漂流すると、幕府は当時発布されていた異国船打払令に基づいて、これを砲撃した。翌年、オランダ商艦長から日本に「外国船はイギリス(この情報は誤りで、実際はアメリカ)のモリソン号で、漂流民の送還とともに日本との通商を目的として浦賀に来航した」と伝えられた。

しかし事情を知らずに砲撃した幕府の対応を、当時田原藩の家老であった崋山は『慎機論』を、陸奥藩の医者の子に生まれた洋学者の高野長英は『戊戌夢物語』を執筆しこれを批判。

同じ頃、幕府は1808年(文化5年)から廃止していた白河会津両藩による江戸湾の防備をモリソン号事件を契機に再開。老中水野忠邦は幕臣かつ尚歯会のメンバーで洋学に明るい江川英龍(太郎左衛門)と西洋嫌いの鳥居耀蔵に調査を命じた。

ここで鳥居と江川を含めた尚歯会の面々との間に軋轢が生じてしまった。これを機に鳥居は尚歯会と洋学の弾圧に乗りだし、高野と渡辺が無人島(ぶにんとう。現在の小笠原諸島)に渡航しようとしているとして無実の罪を着せ逮捕。

のちに崋山は国元にて永蟄居、高野長英を永牢(無期懲役)に処された。

なお、同じく尚歯会のメンバーの一人であった江川は、幕臣として防備上欠かせない人材であったため、そのまま政務に当たり続けた。一方、同じくメンバーの一人で、蘭医の小関三英(こせきさんえい/おぜきさんえい)は長英や崋山と同じように自らにも捕縛されるのではないかと恐れるあまり、自宅で自殺を図った。

事件の背景

この事件の背景には、隆盛を増していく洋学と衰退しつつあった儒学の対立が根底にある。幕府の文教政策を担っていた大学頭(だいがくのかみ)である林述斎らはこの状況に反発していた。

幕府は述斎の子である鳥居耀蔵(鳥居家に養子入りしているため、鳥居姓を名乗っていた)と江川に別々に江戸湾の防備策の立案を命じられた。江川の案がより西洋の事情を理解して立案したことで当時の老中である水野忠邦がこれを絶賛して採用したのに対し、鳥居の案を「旧態依然なもので全然参考にならないから、もっと勉強してから提出しに来い」と退けてしまった。これが元で江川と鳥居の関係に緊張が走り、さらに江川が渡辺に師事していたことから、鳥居の尚歯会への強硬弾圧が始まった。とはいえ、江川や同じく尚歯会に所属する幕臣の川路聖謨に陰謀の手を回すわけにはいかず、彼ら以外を逮捕あるいは投獄することで両名に圧力をかけた。最初は無人島への渡航を企てようとした罪をでっち上げて渡辺と高野を逮捕したが、当然密航の証拠は何一つ出てこなかった。そこで、鳥居は一計を案じ、捜査の過程で渡辺と高野の著書をそれぞれ槍玉にあげ、「幕政を批判した」として処罰した。

事件のその後

渡辺は自宅での永蟄居を余儀なくされ、一時は鬱状態になり自殺を考えたものの、家族のすすめで若い頃からの趣味だった絵に打ち込むことができ、毎日知人の来客があったことで、束の間の休息が訪れた。しかし、幕府が彼らの来訪や絵を描くことを禁じたため、徐々に渡辺は希死願念を強め、最早筆をとる気力もなくなり、希死観念が強まり、結局は自室で割腹自殺した。蛮社の獄から2年後のことであった。

高野は蛮社の獄から5年後に発生した大火事(当時は赤猫といった)に乗じて逃亡。「火事で牢屋は焼けてしまい、その結果多くの者が逃亡してしまったが、もし戻ってくれば罪一等を減じる。逃亡を続けるのであれば打首」という幕府の告知を無視して逃亡し、宇和島藩伊達宗城の庇護を受けたり、硝酸で顔を焼き、名も沢三泊と改め一介の町医者として逃亡生活を送っていた。ところが、獄に繋がれている間親交のあった者が、高野長英の居場所を奉行所の役人に脅迫され漏らしてしまう。

1850年(嘉永3年)に妻子と江戸青山百人町の自宅で潜伏生活中、奉行所の捕方が「仲間が急に苦しみだしたので診てください」と患者を装って自宅に踏み込み、それが騙しの一手であることを見抜いた長英は逃走を図る。しかし、捕方たちが長英に一斉に掴みかかり、長英の頭蓋を十手で何度も激しく殴打するリンチを加えたため、長英は最早虫の息で立つことも不可能だったという。やむを得ず駕籠で護送する途中、長英は駕籠の中で一声うなり声をあげ、それきり息絶えた。

長英の遺族はその後、長英の妻の弟の家に住まわせてもらうが、彼女らは皆、妻の弟のヤクザ稼業の邪魔だとみなされ、ついには厄介払いされ散り散りになり、妻や女児は遊郭に売られたという。

幕府には「自分達が長英を撲殺した」と報告すると幕府の威信を下げてしまうことになるため、長英の死は「捕方たちと乱闘したのち、もはやこれまでと持っていた小刀で喉を裂いて自殺した」と伝えられた。

そして護送された長英の遺体は、「戻ってくれば罪一等を減じる。さもなければ打首」という告知のとおり、首を落とされたという。

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