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北ノ庄城

きたのしょうじょう

北ノ庄城とは福井県福井市に存在していた城郭であり、現在の福井城のある場所に建てられていた。
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このは現在の福井県福井市に存在した平城の城郭である。

概要編集

織田信長の重臣の柴田勝家越前一国を信長に与えられた時、朝倉氏時代の本城だった一乗谷城に代わる越前の本城として作られた。7層あるいは9層の天守を持ち、屋根には凍結による破損を防ぐためではなく足羽山で採掘され、加工しやすい笏谷石が使用されていたとされるが、落城の際建物がすべて焼け落ちている。

関ヶ原の戦い後、徳川家康の次男の結城秀康が越前国主となり、秀康は柴田氏時代と同一の場所であるかは不明であるものの4重5階の天守閣を持つ北ノ庄城(2代目)を築城し初代北ノ庄藩主となった。

3代目藩主である松平忠昌の時代に福居城のちに福井城と改名され藩名も福井藩とされた。

福井城の天守閣は寛文9年の火災で失われ、以後再建されなかった。

 この城は度重なる改修のため遺構が地中に存在するものしかなく、現在周辺は福井市役所などが存在し都市化しているため確認は困難である。

 なお、ゲーム等で擬人化されたキャラクターに関しては北ノ庄城(御城プロジェクト)を参照されたし。


歴史編集

南北朝時代編集

北庄城が歴史上初登場するのは金ヶ崎城・杣山城を拠点とした南朝方の新田義貞と争った北朝方の足利高経が現在の福井市の九頭竜川・足羽川流域に構築した城塞群である足羽七城の一つとしてである。ただし藤島城・波羅密城・安居城と違って七城に数えられない場合もある。高経が義貞を打ち破って越前一国の支配を確固たるものにしてからは廃れたと思われる。


朝倉氏時代編集

戦国時代に突入し、高経の子孫の斯波氏を駆逐した朝倉氏が越前の戦国大名になった。その朝倉氏の一族として朝倉家五代当主・朝倉教景(同じ諱を持つ朝倉宗滴の曽祖父)の弟・頼景が北庄に拠り子孫は北庄朝倉氏となったとされる。6代目の景行は信長の越前侵攻戦で討たれ宗家の朝倉義景と共に滅亡した。その後、北庄には明智光秀羽柴秀吉などが連絡役として滞在したことがあるが、砦そのものは小規模だったとされる。


柴田氏時代編集

朝倉宗家が滅亡した後の越前は、重臣だった桂田長俊を中心に朝倉景鏡朝倉景健らが分割統治したが朝倉家旧臣団の内訌が勃発し領民の反乱が発生し加賀から侵攻してきた一向一揆の手に落ちてしまう。その後の信長による越前再侵攻後、柴田勝家が越前国主となる。勝家は一向一揆や越後上杉謙信対策も兼ねて天正3年から北ノ庄城の築城を開始、以降は勝家の北陸での戦闘における拠点として活用された。

 またこの城には石垣がふんだんに使われており、立派な櫓や屋敷が立ち並んでいたという。天守台には9層の天守閣が建てられ、その威容は主君織田信長の安土城にも匹敵すると言われていた。城下町は安土城城下町の2倍の規模であったとされ、大いに栄えていたという。


信長死後の1583年(天正3年)、勝家は秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗北しこの城に追い詰められた。落城前夜に勝家は家族と残った部下達と宴を行い、当日に浅井三姉妹を逃がし妻・お市介錯した後に天守閣最上階に登り、秀吉軍の眼前で作法通りの切腹をして果てたという。城は爆発炎上したとされ、立派な天守閣も焼け落ちてしまった。


丹羽・堀・青木氏時代編集

北ノ庄城は新たに越前国主となった丹羽長秀に与えられ、長秀死後は嫡男の丹羽長重が城主となった。しかし、長重は秀吉に難癖を付けられ越前を取り上げられ、その後は堀秀政佐和山城(ちなみに後任の城主が石田三成)から移った。秀政没後は嫡男の堀秀治が城主を務めたが、1598年に越後春日山城に移された。後任として筑前名島城主の小早川秀秋が左遷転封されることが決まっていたが秀吉の死で沙汰止みになり暫く城主不在となった。翌1599年に秀吉の親族とされる青木一矩が同じ越前の府中城から移った。しかし、一矩は関ヶ原の戦いの際には死の床にありそのまま病没し、青木氏は改易された。その後は保科正光(会津松平家の祖となる保科正之の養父)が在番したことがある。


越前松平氏時代編集

青木氏改易後、徳川家康の次男である結城秀康下総結城から入封した。

秀康は本城を大規模に増改築し居城とした。秀康の没後は長男の松平忠直が継いだが乱行の廉で豊後に配流され、秀康の次男・松平忠昌が兄の後を継いだ。忠昌は北ノ庄城の「北」の字が「敗北」にあたり不吉とされ(異説あり)、城名は「北ノ庄」から「福居」さらに「福井」と改名され藩名も福井藩となった。

一般的には安土桃山時代の、特に勝家が築いた城を北ノ庄城とし、秀康が築いた方の城は福井城として呼び分けている。正確には秀康や忠直の時代にはまだ北ノ庄城名義である。

 

1669年(寛文9年)に火災で天守閣等が焼失、天守閣は再建されず、本丸南西隅の2重巽櫓を再建する際に天守機能を持たせたため天守櫓とも呼ばれる。

明治維新後の廃城令では存続したものの、天守櫓などの重要な建物等は帝国陸軍の管轄となり、取り除かれたのではないかと推測される。

 その他の場所はその後城主であった松平氏一族に払い下げられ、明治中期に農業試験場として利用されたりしている。なお、第二次世界大戦の空襲により一帯が焼け野原となっている。


現状編集

 現在北ノ庄城の存在したとされる範囲は市街地化が激しく、福井城本丸部分の遺構や福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが存在する。

 この城および後継である福井城は幾たびに渡り増改築が行われたため勝家時代の城の遺構は一切残っておらず、せいぜい発掘調査で出土した石垣の遺構があるのみ。

 また、一部は公園として整備されており、北ノ庄城址公園にはこの地域に北ノ庄城の天守閣があったといわれている柴田神社が建てられており、勝家とお市が祀られており、北ノ庄城天守閣の復元模型も存在している。


pixiv編集

タグとしてはブラウザゲーム御城プロジェクトにて擬人化されたキャラクター、北ノ庄城(御城プロジェクト)が描かれている。

 また小説においては戦国BASARA関連の文章が存在する。

関連タグ編集

 戦国時代 歴史

福井城

柴田勝家 お市

越前松平家 結城秀康

松平忠直 松平忠昌

戦国BASARA 御城プロジェクト(北ノ庄城(御城プロジェクト))

参照編集

wikipedia福井城

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