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一乗谷城

いちじょうだにじょう

一乗谷城は福井県福井市南東部に存在した山城であり、一乗谷朝倉氏遺跡の一部である。
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概要編集

 一乗谷城(いちじょうだにじょう)は越前国に存在した一乗城山に築かれた山城である。このは朝倉氏の居城として知られており、南北朝時代には拠点として存在していた可能性がある。

 この城は織田信長により攻められた際灰塵と化した。

 この城は中世に作られた山城であり、この城は戦に用いられたことはなかった可能性がある。

 なお、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残存している。

歴史編集

 この城に居住することになる朝倉氏は元は但馬国養父の武将であったが、当時従っていた斯波高経が越前国守護となったため入国したとされる(それ以前に拠点としていた可能性が存在する)。

 その後戦国時代に主君であった斯波氏を追放して(下剋上)一乗谷に本拠地を移したとされており、この時から戦国初代とする。

 3代朝倉貞景の代に加賀一向一揆(浄土真宗本願寺教団、通称一向宗の信徒が興した一揆、心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとする行為であり、80年以上信徒により継続し勢力を維持し百姓の持ちたる国と呼ばれた)を駆逐し越前は平穏を取り戻したとされている。

 以降一乗谷は4代朝倉孝景に渡るまで最盛期を迎え、このころまでには応仁の乱(15世紀に10年近くにわたり発生した内乱、室町幕府管領家の細川勝元および山名宗全が争っ他ことをきっかけに他の守護大名などにも飛び火した、この内乱により京都が焼け野原となり、戦国時代が始まったとされる)をはじめとする戦乱を恐れる公家など文化人たちの避難場所として城下町は大いに発展したとされる。

 しかし5代目である朝倉義景の時には織田信長の命で室町幕府将軍足利義昭が上洛を要請したものの、それに答えず、見切りを付けられたことから浅倉氏は転落していったとされる。その際浅井長政が信長を裏切り、朝倉側についたり武田信玄同盟を組むことにも成功したりもするが信玄はその後なくなり、天正元年、義景はこの城を放棄して逃走、翌日信長によって火を放たれ焦土と化す(一乗谷炎上)。

 朝倉家滅亡後は裏切った家臣、桂田長俊が所領したものの、他の元家臣も絡む一揆により死亡、その後柴田勝家に与えられるが、この地が山中にあり交易に不便な点もあり拠点北ノ庄城に移したためこの城を含む地域は忘れ去られることとなった。

一乗谷朝倉氏遺跡編集

 この近辺には城および家臣が在住していた武家屋敷、それに伴う城下町が存在していたが、城下町はおそらく一乗谷炎上の際再建されることはなく、さらに北ノ庄城に拠点を移した際忘れ去られ、そのうち埋もれてしまった。

 昭和時代になり、露出していた庭園が昭和5年に名勝として登録され、昭和42年に調査を行い、地下に状態の良い遺跡があるらしいことを発覚、翌昭和43年、上にあった建物を移転し、発掘作業を行ったところ、館跡の遺構が大変良い状態で発見された。それを受けて昭和46年、山城跡を含めて国の特別史跡に指定。

 遺跡全体は278ヘクタールに達し、その中にある4つの日本庭園が国により特別名勝(観賞上価値が高い土地について、日本国および地方公共団体が指定を行ったもの)の指定を受けている。

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 タグとしてはほとんどが擬人化されたキャラクター(城姫クエスト御城プロジェクト:RE)のイラストなどの創作である。

関連タグ編集

福井県 歴史 戦国時代

城姫クエスト

御城プロジェクト:RE 一乗谷城(御城プロジェクト)

参照編集

wikipedia一乗谷朝倉氏遺跡

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