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生没年 1571(元亀2)年~1637(寛永14)年

官位 従三位 参議・加賀守


概要編集

安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将・大名。織田信長の重臣であった丹羽長秀の長男。母が信長の庶兄織田信広の娘であるため、信長は大叔父にあたる。


幼少期~豊臣時代編集

父・長秀の意向で早い時期から羽柴秀吉に従い、若年ながら賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いに出陣した。

1585(天正13)年、長秀が死去。遺領を相続したため、越前の大部分と南加賀合わせて60万石という旧織田家臣として最大の所領を得ていた。ちなみにこのとき、長重はまだ15歳である。


しかしそんな大大名を野放しにしておくほど秀吉も甘くはなかったようで、同年、佐々成政越中討伐に従軍した際、家臣のなかに敵方に内通した者がいるという疑いをかけられ越前と加賀を没収され、かつての旧領だった若狭1国15万石のみ安堵というキツイお仕置き(とばっちり?)を受けることに。

おまけにその2年後には九州平定戦の際に家臣が狼藉を働いたというまたまた家臣絡みのネタを理由に若狭すらも召し上げられ、たかだか加賀松任(石川県白山市)4万石という加賀の辺境の小大名に成り下がってしまう。


その後、何やかんやあって小松(石川県小松市)12万石までは回復できたものの、関ヶ原の戦いで西軍に属して同じエリアの東軍大名である前田利長と交戦したため、戦後とうとう改易処分になってしまった。15年前は60万石の超絶お殿様してた人が今や禄無しの浪人という、かなりハードモードな転身を遂げた瞬間であった。強く生きて


徳川時代編集

……とはいえ、いったん改易となったものの、長重は1603年には常陸古渡(茨城県稲敷市)を治める1万石の大名として復帰している。

また、大坂の陣で武功を挙げたため、二代将軍・徳川秀忠の御伽衆という要職に就いた。

一説には、安土城を築城したという父・長秀譲りの築城技術の高さが幕府に評価されていたためにほっておかれることなく領地を与えられたという話も。

その後はトントン拍子に出世していき、1627年にはついに陸奥白河(福島県白河市)10万石というそこそこの大名に返り咲いた。


因縁?編集

長重のように、関ヶ原を機に一旦は改易されながらも後に徳川政権下で10万石以上の大名として復活したというミラクルを起こした人物はもう一人いる。九州きっての勇将・立花宗茂である。

同じようなエピソードを持つためか、何かとセットで語られることが多い両者だが、実はふたりの共通点……あるいは因縁的なものが他にも存在し、長重が徳川秀忠の御伽衆に抜擢されたとき同じメンバーには宗茂がいたし、白河の前、陸奥棚倉5万石の大名となったときも長重の前にその棚倉を治めていたのは宗茂であった。

まあ、幕府が意図してそういう人事をやっていただけの話だろう……と言われてしまえばそれはそうなのだが、見事な敗者復活戦を遂げたふたりだから、何らかの因縁を感じられずにはいられない。


余談編集

長重に直接は関係ないが、長重死後、子・光重は白河から二本松(福島県二本松市)に移り、以来丹羽家は二本松藩主として長く当地を治めた。

幕末、二本松藩は幕府側に与して戊辰戦争を戦った。その際、二本松藩は戦時の独自制度に従ったために子供だろうが大人だろうが12歳以上の男子なら出兵できるということになってしまい、最終的にはただでさえ新政府軍7000人vs二本松藩1000人という無茶な戦いでありながら200人以上もの少年の犠牲者を出す凄惨な結果になった。二本松城も落城している。

戊辰戦争の「悲劇」といえば会津藩白虎隊が有名だが、二本松でも同じようなことが起こっていたのである。


藩祖・長重の遺言には徳川将軍家への奉公を最大至上とするように、との文言があり、その意向が代々受け継がれていたため時流を読んで薩長側に付くなどということもなく、最後まで幕府への忠誠心を捨てきれずに新政府軍に反抗した、ということらしい。

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