この項目では前身とされる末次城についても触れる。
概要
鎌倉時代〜戦国時代
松江城が築かれた亀田山には末次城があったが、これが明らかになったのは21世紀に入ってからでありそれまでは謎の城とされていた。末次城は鎌倉時代に出雲源氏佐々木氏の一族である末次氏が築いたとされ戦国時代は尼子氏や毛利氏が領有した。毛利元就の八男・末次元康は父・元就から出雲国末次庄2400貫の所領と末次城を与えられ名字を「末次」と称した。1585年に月山富田城主だった五兄の毛利元秋が病死し、元康が月山富田城主に転じてからは廃城になったと思われる。
江戸時代以降
関ヶ原の戦いを経て毛利氏は防長二国に減封され、出雲・隠岐には新たに遠江浜松城主の堀尾忠氏(越前府中領主だった堀尾吉晴の嫡子)が出雲・隠岐の国主となり出雲富田藩が立藩され月山富田城を本城とした。忠氏と吉晴は月山富田城の不便さから新城を築くことについては一致していたが忠氏が亀田山(末次城跡)を望んだのに対し吉晴は荒隈山を推していた。結局父子で意見がまとまらないまま忠氏は1604年に逝去、嫡子の忠晴が後を継ぎ祖父の吉晴が後見した。その後、吉晴も生前の忠氏の主張通り1607年から亀田山に築城を開始1611年に竣工、本拠地を月山富田城から移した。しかし、1633年に忠晴が嗣子無くして逝去したため堀尾氏は無嗣改易され、若狭小浜から京極忠高(高次の子)が入ったものの忠高も1637年に実子なくして逝去し養子の高和は播磨龍野に減転封された。その後、新たに上野前橋から結城秀康の三男で松平忠直・忠昌の弟である松平直政が入った。直政に始まる雲州松平氏は幕末まで続き松平不昧(治郷)を輩出している。
近年の研究で堀尾氏が築城を開始した際に、城下町は松江と名付けられ末次城移転に伴い藩名は富田藩から松江藩となった。しかし、末次城が松江城と呼ばれるようになった時期については判明していない。はっきりしているのは堀尾氏時代は末次城と呼ばれていたこと、雲州松平氏が入部した頃は松江城と呼ばれていたことである。
天守は築城当時のものが現存している。国内12ヶ所の現存天守のひとつで山陰地方では唯一のものである。
2015年5月、文化庁の文化審議会による答申で国宝に指定されることになった。
松江市内に築城と共に整備された城下町の名残としては敵の侵入対策として十字路をずらして造る「鉤(かぎ)型路」がみられる。
アニメ「秘密結社鷹の爪」にも度々登場している。
関連タグ
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天守閣が国宝の城