概要
尾張丹羽郡の土豪である堀尾氏の出身。父である堀尾泰晴は、吉晴の生まれた当時織田信安(岩倉織田氏当主、尾張上四郡守護代)の重臣の一人であったが、その傍流である織田弾正忠家の織田信長との戦いで岩倉織田氏が滅亡すると父ともども浪人となり、後に尾張を統一した信長に仕え、さらに信長家臣の一人であった木下秀吉に附けられた。
以降、永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めを始め、秀吉の下で数々の合戦に参加。天正元年(1573年)に近江長浜内に100石を与えられたのを皮切りに、その後も山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いでの功績が認められ、天正13年(1585年)時点で近江佐和山4万石を有するまでに至った。同時期には田中吉政や山内一豊らと共に、豊臣秀次付の宿老にも任ぜられており、主君である秀吉の信任も厚かったと見られる。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては、秀次麾下の将として山中城攻めに参加。嫡男である金助をこの間に喪いながらも、ここでも戦功を賞され小田原城開城後に遠江浜松に12万石を与えられた。
秀吉薨去後、政権を主導するようになった徳川家康に親しい立場となり、家康と前田利家、石田三成らとの調整・周旋を務めるも、程なくして老齢のため隠退、次男の忠氏に家督を譲った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも、家康率いる東軍に息子ともども属したが、その際忠氏にのみ従軍が命じられ、吉晴には隠居料として与えられた越前府中への帰国が命じられた。ところがその途上、三河において水野忠重(水野勝成の父)から歓待を受けた際、同席していた加賀井重望が忠重を殺害するという事件が発生。吉晴も負傷しながらも重望を討ち取るが、こうした事情から関ヶ原本戦には参戦叶わず、越前府中より近江や北国の情勢を家康に報せるのみに留まった。
戦後、忠氏の戦功に報いる形で堀尾氏は出雲富田24万石を領する事となるが、その忠氏には慶長9年(1604年)に先立たれており、跡を継いだ孫の忠晴もまだ幼少であった事から、吉晴がその後見役を務める事となった。同時期には隣国伯耆において、米子藩主であった中村一忠(中村一氏の嫡男)の要請により御家騒動の鎮圧にも当たったが、この一件が原因で後に中村氏は改易とされている。
慶長16年(1611年)に死去、享年69。同年に建造した松江城に本拠を移したのが、吉晴の生涯最後の仕事となった。松江藩堀尾氏はその後、孫の忠晴が嗣子のないまま死去したため嫡流は断絶、わずか2代で改易とされたが、一族が他家に仕え名跡を保つ事となる。