生没年 ?~1600(慶長5)年
官位 従五位下 式部少輔
出自については藤原氏・桓武平氏・近江源氏とするなど謎が多い。正室は池田恒興の娘・せん
生涯
早くから羽柴秀吉に仕え、1573(天正元)年に秀吉が近江長浜を与えられると200石を与えられる。
その後山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで功績をあげ、1583(天正11)年に和泉岸和田3万石を与えられる。
1584(天正12)年、徳川家康・織田信雄の連合軍と同盟した紀伊の国人衆が和泉へ進攻してきた。1月と3月に大規模な攻勢に出た紀伊国人衆であったが、一氏は劣勢ながらも巧みに戦い岸和田城を守り抜いた。この功績により翌13年、近江水口岡山6万石へ加増移封された。
1590(天正18)年、小田原進攻の際は羽柴秀次隊に属し、山中城攻めで活躍。戦後、家康の旧領のうち駿河府中14万石へ加増移封された。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは東軍に所属したが、合戦前に病没した。
跡は長男の一忠が継ぎ、戦後伯耆米子17万石を与えられたが、1609(慶長14)年に病没、無嗣断絶となった。ただし、一忠の庶子・一清が池田恒興の曾孫である因幡鳥取藩家老・池田知利の客分となり、そのまま明治まで鳥取藩の陪臣として続いた。