概要
静岡県浜松市中央区元城町にあった城。かつては濱松城と表記していた。
三方原台地の東縁にあたる段丘を利用して築かれており、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、東南に三の丸と、各曲輪が隣接しながら、階段状にほぼ一直線に並ぶ「梯郭式」の築城法をとっていた。
江戸時代には南北約500m、東西約450mほどの規模があった。
歴史
15世紀頃に築かれた引間城が前身とされる。この城は尾張の斯波氏と駿河の今川氏との抗争の中で戦略上の拠点となり、斯波氏方の巨海氏や大河内氏、今川方の飯尾氏が城主を務めた。
元亀元年(1570年)、遠江を攻略した徳川家康は岡崎城から引間城に居城を移し、浜松城と城名を改め武田信玄に対する前線基地として引間城を組み込む形で築城工事を開始。金ヶ崎の戦いや姉川の戦いなどの出征で慌しい中、工事が進められていった。
当初は遠江国の守護所が置かれ政治や商業の中心地となっていた見付(現在の磐田市)に拠点となる城の築城を始めたが、武田軍の侵攻を受けた場合、天竜川によって西への退路が断たれるなど戦略上の問題を抱えていることから城普請を中断しこの地に変更したという。
当時の城は自然の地形を利用した土塁や堀からなる中世的な土造りの城だったと考えられているが、一部に家康時代に築かれた可能性がある石垣も確認されている。
家康は29歳から45歳までの17年間この城を本拠とし、人生最大の危機とも言われている三方ヶ原の戦いをはじめの多くの戦いに臨んだが、天正14年(1586年)に駿府城に本拠を移すことになった。
これは天正13年(1585年)に石川数正が出奔し豊臣秀吉に臣従する事件が発生。重臣だった数正は浜松城や徳川家の軍事機密を知り尽くしており、機密情報が豊臣方に筒抜けになってしまったことから拠点を移さざるを得なかったとされる。
その後は菅沼定政が城代を務め城を守った。
天正18年(1590年)、小田原征伐後に家康が関東に移封されると秀吉の重臣である堀尾吉晴が城主となり、浜松城は高い石垣や瓦葺の櫓や城門、天守などが築造されて近世城郭として築城し直された。
この時に建てられた天守は資料が乏しくよく分かっていないが、のちに堀尾氏によって築かれた松江城の天守は浜松城の天守を参考に建てられたと考えられている。
関ヶ原の戦いの後、堀尾氏は出雲国に移封され一時は徳川頼宣領となるがその後、浜松藩の拠点となり、三の丸の拡張や既存の建物の整理・改修が行われた。
浜松藩には5~6万石ほどの領地が与えられ、江戸時代を通じて徳川譜代の大名が入れ替わり城主を務めている。
歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた(しかし不祥事を起こし左遷された藩主もいる)。天保の改革で知られる水野忠邦も約30年間城主を務めている。
江戸時代の265年の間で浜松藩の藩主は22人おり、平均約12年弱の期間に藩主が変わっている。
明治時代になると廃城令により建物や土地の払い下げが行われ城郭の大部分は破壊され宅地化が進んだが、戦後に開発を免れた天守曲輪と本丸の一部が浜松城公園として整備され、昭和33年(1958年)に地元住民の寄付によって天守が再建された。
平成29年(2017年)には続100名城に選定されている。
作品等
CV:井上麻里奈
CV:大西沙織