概要
静岡県浜松市中区にあった城で曳間城、曳馬城、引馬城とも表記される。
15世紀頃に築城されたと考えられているが諸説あり定かではない。築城者についても今川貞相や三河吉良氏被官の巨海新左衛門尉など諸説ある。
当時の浜松の中心だった引間宿や東海道を見下ろす丘陵地に築かれ方形の土塁に囲まれた曲輪が田の字状に配されていた。
尾張・遠江に勢力を伸ばしていた斯波氏と駿河の今川氏との抗争の中で戦略上の拠点となり争奪が繰り返されたが、斯波氏が今川氏に敗れると今川家家臣の飯尾氏が城主を務めた。
桶狭間の戦いののち、飯尾家4代目の飯尾連竜は今川氏真から徳川家との内通を疑われ、永禄6年(1563年)と永禄7年(1564年)の二度に渡って城を攻撃されるが落城は免れた。しかし永禄8年(1565年)、連竜は今川家からの和議の提案を受け入れ、駿府に出向いたところ暗殺されてしまう。
その後、城は連竜の妻・お田鶴の方を中心とした飯尾氏の残党によって守られるが、永禄11年(1568年)、遠江国に侵攻した徳川家康は城を包囲し、「城を明け渡せば妻子共々面倒を見る」と降伏を促すもお田鶴の方はそれを拒み、城兵を指揮して奮戦し討死にしたとされる。また、城内では徳川派と武田派に分裂して内紛が起きていたため家康によって早期攻略されたともされる。
元亀元年(1570年)、家康は武田信玄の侵攻に備えるため岡崎城から引間城に拠点を移し、馬を引く負け戦を連想することから縁起が悪いとして城名を浜松城と改称し城の拡張・改修を行った。
その後、時代が進むにつれ、引間城は主郭ではなくなり、米蔵や屋敷などが置かれ古城と呼ばれるようになっていた。
現在、城の本丸跡には明治時代に旧幕臣により創建された元城町東照宮が建てられている。