その他曖昧さ回避
概要
香川県高松市玉藻町に所在。
別名は「玉藻城」や「讃岐高松城」。
水攻めで有名な高松城は別の城なので要注意。
あと、安芸国(現在の広島県)にも「高松城(三入高松城)」がある(正しくは、あった)ので、こちらも注意。
さらに紛らわしい事には香川県内には玉藻城以前にも「高松城」が、かつて存在していた事があった。こちらは屋島近隣に在した守護大名の「高松氏」が領した「旧高松城(古高松城)」と呼ばれる城で、豊臣秀吉の四国討伐によって落城の憂き目に遭っている。別名は「喜岡城」で現在、城跡は寺(喜岡寺)になっている。また、この城が存在していた地域は、現在「古高松」と呼ばれている。
玉藻城
豊臣秀吉の武将として活躍した生駒親正は四国討伐後に讃岐国一国を与えられた。讃岐に入った親正は本拠地を転々とした後に新たな城を築く事を決意した。こうして築城されたのが高松城(玉藻城)である。
その後、江戸時代に生駒氏はお家騒動を起こして改易となり、代わりに高松城には水戸藩から徳川頼重が入封され高松藩が成立した。現在の城と町は頼重時代に大体完成している。
城は海の近くに面しており、水堀には海水を引き入れていた。城からは内堀・外堀を通ってそのまま海に出る事が出来、縄張り・規模共に最初で唯一の海城として有名である。海側から城を見た様子はまさに海に浮かぶ要塞であり、当時の屏風絵には城下町の繁栄っぷりと共に城の様子や縄張りも描かれている。明治に入るまでは3層5階の天守がそびえ立っていた。小規模な本丸とは橋一本のみで連結されており、橋を落とせば完全に外界と隔てられる仕組みとなっていた。
現在
天守閣や建物は明治時代に取り壊され、さらに第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)後期の本土空襲(高松空襲)の影響、さらに戦後復興からの高度経済成長期における未来思考の(地域の文化を蔑ろにして後先を考えなかった)都市開発の犠牲となり、現在は城域は往時の8/1まで狭まっている。当時は海に接していたが、海の埋め立てにより幾分離れてしまった。内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられてしまい、水城の威容もだいぶ減少している。残った水堀にはいまも海水が流入しており、牡蠣などの海の生き物が生息しタイの養殖も行われている。
現存している北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、旧東の丸艮櫓は重要文化財として指定・保存されている。
三の丸が藩主の生活・藩政の場で、披雲閣と呼ばれる御殿が建てられていた。大正時代にかつての藩主だった松平家が披雲閣を再建し、これを戦後に県が寄付を受けて運営している。
残った城域は玉藻公園として整備されている。有料。また、天守閣と桜御門と呼ばれる門の復元計画が立ち上がっており、それに向けて動いている。
なお西側に最寄り駅となる高松築港駅が隣接している。