概要
一国の国民経済の規模が飛躍的に拡大する時代。アジア諸国など一般的なものについては高度経済成長の記事に記載する。
日本においては、1954年(昭和29年)12月から1970年(昭和45年、いざなぎ景気の終焉)または1973年(昭和48年、第一次オイルショック)までの時期がこれに当たる。
基本的に毎年給料は右肩上がりであり、「国民所得倍増計画」が掲げられた1960年代には、年率実質成長率10%前後の目覚ましい経済成長が達成された。成長率が期間中最低で「不況」とされる1965年でも実質成長率は4.4%もあった(バブル崩壊以降の日本経済は4%以上の年間成長率を一度も記録していない)。
1971年のニクソンショック(変動相場制への移行)、1973年のオイルショック(同年に戦後初のマイナス成長を記録)などが重なり終焉を迎え、安定成長期(年間成長率2~6%台)に移行していった。
時代の経過
高度経済成長期は電力、鉄鋼、造船、石炭といった重工業がけん引する「神武景気」から始まる。戦後復興が一段落したあとも設備投資は旺盛であったが、これは外需と人口増に支えられたもので、1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と言いつつ国民の生活水準はまだ戦前のレベルまで回復していなかった。豊かさを渇望する大衆がけん引する内需の伸びは外貨不足によりたびたび足を引っ張られ、国際収支改善のための金融引き締めにより1957年7月から「なべ底不況」に突入する(当時海外旅行はまだ自由化されていないが、これは外貨不足のためであった)。
なべ底不況は大方の予想に反してわずか1年間で終わり、1958年6月から「岩戸景気」に突入する。これは「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)をはじめとする耐久消費財の旺盛な需要に支えられたもので、1961年12月まで続く長期の景気拡大となった。この時期は石炭から石油にエネルギーの主役が交代する「エネルギー革命」の時代であり、「神武景気」の頃まで栄えていた北海道や筑豊などの炭鉱町の衰退が始まる。1960年1月には日本初の原子力発電所として東海発電所建設工事着工(1965年臨界)。「原子力の時代」の幕開けである。1960年12月には池田勇人内閣が「国民所得倍増計画」を発表、1970年までの10年間の年平均成長率を7.2%に設定し、国民所得を倍増させる目標を掲げた。当初の大方の反応は「非現実な人気取り」として冷ややかだったが、その後10年間で目標を上回る成長が達成され、「高度経済成長の原点」として再評価された。カラーテレビ本放送が始まったのもこの時期(1960年9月)であった。しかし、結局は神武景気同様に国際収支が悪化し、金融引き締めを行った結果、不況へと転じた。
1962年11月から東京オリンピック開催の1964年10月までが「オリンピック景気」である。これは東京オリンピックを控えた東海道新幹線、首都高速道路、名神高速道路、地下鉄などのインフラ投資が牽引し、またオリンピックを見るためのテレビなども売れ好況となった。また日本は1964年4月にOECD加入を果たし、名実ともに先進国の一員となった。しかし、五輪の閉幕とともに証券バブルがはじけ不況が発生し、1965年に山一證券への日銀特融が行われた。しかし、個人消費は引き続き旺盛であり、流通業やサービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。
1965年10月から1970年7月までの57か月継続という未曽有の好景気が「いざなぎ景気」である。1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜きアメリカに次いで第2位となり、日本の目覚ましい経済発展は東洋の奇跡と世界から称賛された。いざなぎ景気が長期間続いたのは設備投資と公共投資、個人消費が引き続き旺盛であったことと、貿易収支と経常収支の黒字が安定し、国際収支の天井がなくなったためであるが、設備投資は過熱気味であり大阪万博のさなかの1970年7月に息切れし、調整期に入る。がその後も3C(自動車、カラーテレビ、エアコン)への消費支出が増加するなど個人消費は引き続き堅調であり、不景気に陥ることはなかった。企業業績への影響が顕在化するのは1971年8月15日の変動相場制への移行(ニクソンショック)、人々が不況を感じるようになるのは1973年10月以降の第一次オイルショックである。この時期になると公害や交通戦争、農山村の過疎化など成長の歪みが顕在化する一方、労働生産性の向上分を賃上げより時短に割りあてる傾向が強まった。人々はしゃにむに豊かさを求めて突進してきたことを反省し、生活の質の改善を求め始めたのである。
この時期を舞台とした作品
リアルタイム、つまり「当時に現在を扱った作品」は除外する。同時代の作品については昭和レトロも参照のこと。