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山一證券

やまいちしょうけん

日本の証券会社のひとつ。
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概要

1917年に「山一合資会社」として設立され、1926年に山一証券株式会社に改組された。
この山一合資会社は、1897年に小池国三によって設立された「小池国三商店」が、1917年に解散してしまったため、その受け皿会社として設立されたものであった。ただその一夫で、山一としては、小池国三商店の設立を持って創業としていた。

山一證券破綻

1965年の危機

1965年に西日本新聞のせいで取り付け騒ぎが起こり倒産しかけたが、この時は当時の田中角栄蔵相が、証券会社の資金が不足した場合大蔵省(当時)日銀が救済する、と明言したため騒ぎは収まり、山一は日銀から不足する現金を融資(日銀特融)してもらい破綻を免れた。

しかしこれによって山一證券は1969年まで国に首根っこ掴まれた状態になった。大蔵省の推薦で社長となった興銀出身の日高輝が1972年に退任した後、再び山一社内の主流派である植谷久三が社長に就任すると、一気に経営を拡大させた。
しかし、右肩上がりに経済成長を続ける日本経済にあって山一は、同じ大手証券会社の中で出遅れた感があり、他社は山一以上に成長して、1965年危機の前まで日本2番目の証券会社だった山一は4番目(大手最下位)に落ちぶれてしまった。

ガバナンスなき戦い

植谷の後を継いで社長になった横田良男は強引な手段を使っても営業成績を拡大するよう各事業部に迫った。しかし、業界トップの野村が財テクブームに乗って個人投資家を広く集め業績を拡大するのに対し、小口個人取引が一般化しだす1970年代にそのダッシュで遅れた山一は水を開けられるばかりだった。

そこで山一も小口個人顧客の開拓を活発化する……のではなく、社内で最も成績を出していた法人向け部門を更に強化することで収益拡大を図った。この為、以下のような経営方針がとられた。

  • 運用の契約を取る。
  • 収益性の高い法人向け運用契約を取る。
  • 何が何でも契約を取る

……ということで、なりふり構わず資金を得られる契約を取りに行くため、
  • 一任勘定で営業特金の契約を取る
    • 一任勘定とは投資家の株運用をアシストする方式ではなく、株主が口座に預けた範囲で証券会社が株式を運用する方式。特金(特定金銭信託)とはユーザーが株式を運用するのに必要な現金を証券会社に預けておく方式。営業特金とは一任勘定で預かった特金のこと(本来、特金運用はユーザーが直接運用を指示するか、証券会社と利害関係にない投資運用顧問が指示する形態)。営業特金は預かり期間何回でも売買を繰り返して売買手数料を稼ぐことができるが、その結果ユーザーが損害を受ける可能性が高いことや、売買を繰り返された株式の価格が乱高下して債務者(株式を発行している会社)の財務状況を悪くしてしまう為当時は所謂グレーゾーン行為であった。しかし日本は世界恐慌から第二次世界大戦終戦までの一時期を除くと、長い目では平均株価は上がる一方であったため「値上がり神話」なるものが存在し、大蔵省にも危機感がなく事実上黙認されていた。
  • 上場主幹事の立場を維持する
    • 証券会社は上場を申請する企業の申請業務を支援する業務もしているが、当時は証券取引所二部までしか存在せず(JASDAQは1963年に店頭登録制度として設置されたが、当時は補助市場で証券取引所とはみなされなかった)、上場審査のために多数の手続きを取る必要があったため、複数の証券会社にまたがる事が多かった。主幹事証券会社はその中の旗艦と言うべき企業である。上場後も株式の発行業務に主体的に関われる為、主幹事でいることは当時の証券会社にとって重要な要素だった。

……これらを優先して確保するため、以下のような手段が取られた。
  1. 「ニギリ」と呼ばれる元本・利回り保証の一任勘定契約をする。
  2. 上場主幹事をしている企業の株式発行での便宜を取り計らう。
  3. 大口の法人ユーザーの講座で運用損失を出した場合は株式売買以外の方法で補填する。
1.と3.は証券取引法違反であり2.は時に総会屋への利益供与行為(1982年から商法違反)につながることが多かった

実際のところ大蔵省は当時免許制であった証券会社に免許を与える立場だったため、特に山一のような老舗証券会社がこれらの不祥事を起こすと大蔵省の監督責任も問われることから、触法行為に気付いても黙認していることが多く、当時の証券会社はどこも真っ黒というのが実情だった。
ただ、個人財テクブームに乗って損失発生時に証券会社が負担を肩代わりするリスクを抱える「ニギリ」のウェイトは減っていき、同業他社はだんだんこれらの比率を下げていった。
しかし個人投資家・小口投資家の開拓で出遅れていた山一はむしろこれらの行為を過熱していった。

三菱重工転換債事件

1986年には三菱重工転換債事件を起こす。
三菱重工の株主総会に先んじて総会屋に利益供与をした。天下の三菱重工だけあって関わっていた証券会社は山一だけではなかったようなのだが、山一の利益供与先リストが別の総会屋に漏れてしまい会社が脅迫される事態に陥った。脅迫の被害を届け出れば山一の犯罪行為も顕になってしまうし、そこから芋蔓式に三菱重工、三菱グループ、それに三菱の株式発行に関わっている同業他社まで巻き込んでしまう。
ちょうど、脅迫者の要求は「法人事業畑の役員の首を切り個人事業畑の役員を副社長にしろ」というものだったので、名指しされた主流派の行平次雄を、書類上海外の子会社に転籍させて脅迫者の要求を聞いたことにしつつ、副社長にしろと名指しされた非主流派の役員に、リスト流失の責任を被せた。
行平は1年後に本社に副社長として復帰した。

どこにも露呈しないまま沈静化したとかも割れたが、経済誌のインタビューに答えた会長職の植谷が、酒に酔っていたためインタビュアーにこの事件を漏らしてしまい、公に発覚した。
しかし、参考人として東京地検特捜部にマークされていた非主流派の役員は自殺体で発見され、これによってこの事件の真相は闇に葬られた。

「飛ばし」

1980年代に入ってバブルによる急激な株価上昇によって山一も経営規模を拡大していった。しかし、その間でも倒産や営業不振などで時価を落とす銘柄もあった。すると、その法人ユーザーが決算を迎える前に、決算期の異なる別の企業に損失の発生した株券を、一時的に購入時以上の価格で買い取ってもらう。決算が来ると、一任勘定で証券会社が購入した株式もユーザー法人の資産となるため、決算書や有価証券報告書に記載され損失が出ていることがバレてしまうが、この方法でユーザー法人の決算を乗り切ってしまえば損失の事実が表に出ないで済む。
その後、一時的に株を買った企業の決算前に、買い取ってもらう時に決めた利益を付けて買い戻す。この時、株価が回復していればそのまま市場で売り抜けるか、元のユーザー名義に戻す。
株価が回復しない場合は、他のユーザーの名義の株で値上がりが充分以上のものを市場で売却し、その利益の余裕分を損失を出したユーザーの口座に現金で付け替える。
以上の行為は「飛ばし」と呼ばれた。もちろん証券取引法違反だったが、やはり多くの証券会社で日常的に行われていた。

砂楼の崩壊

1988年に入ると、バブル崩壊の前震とも言うべき形で、突然値崩れしたままになる銘柄がポロポロと出始めた。流石に額が大きく、「飛ばし」の件数も増え始めたため、証券会社各社は多額の損益を被ることを恐れて、「ニギリ」の一任勘定契約を解約するか、元本保証しない契約であることを確認させるかして、「ニギリ」の額を減らしていった。さらに1989年末、大蔵省から損失補填を慎むよう通達が出された。
本来は違法なのに、「慎め」という通達を出している時点でおかしいのだが……

1990年年明けから、株式市場の継続的な値下がりが始まった。バブル崩壊の始まりである。日経平均株価は4万円目前に迫っていた1989年の大納会から、ほぼ半値まで一気に急落した。その後下落の勢いは止まったものの、継続して下げ基調であり大掛かりな値崩れは期待できない状態が続いた。
ほとんどの株価が急落したため、どの証券会社も大口ユーザーの口座に相当な額の含み損を出してしまった。どの会社も「飛ばし」を繰り返して切り抜けようとしたが、額が大きすぎた上、上がる銘柄がほとんど無い市場で補填するための利益を出すことは不可能だった。そこで一部のユーザーに対しては本来禁止されている、証券会社が直接、購入時もしくはそれに保証利益分を加えた額の現金で買い取る損失補填処理を行った。これは、一様にすべてのユーザーに一律の額もしくは利率で補填したわけではないため、証券取引法で保証すべき“証券取引の公平性”に反する行為で、当然違法だったが、被害が大きくなる前に損失補てんして「ニギリ」を早期解消することが求められた。
しかし、規模が大きいためにすべてを隠すことはできず、関係者からのリーク、また、証券会社自身もほとんどが上場企業だったため、決算書や有価証券報告書で不自然な減損が発生していることから調査されてバレる事があり、次々発覚して社会問題化した。
ことここに至って、大蔵省と政府自民党は、損失補填行為の温床となっていた営業特金(証券会社による一任勘定)を禁止すると同時に、損失補填の為の「飛ばし」を封じるために上場企業の決算期をそれまでの1年2回から1年4回とする、証券取引法の改正を断行することとした。
一説では、前年末の大蔵省通達からこの法改正へまでの流れに伴う証券会社の損失圧縮のための売買行動がバブル崩壊の一因にもなったと言われる。

追い詰められる山一

山一證券はバブル崩壊で約1.8兆円となる営業特金に5000億円もの含み損を抱えることになってしまった。
バブル崩壊に直面して、社長の行平は以下のように支持した。

  • 客とトラブるな
  • 粛々と引っ張れ(契約更新を続けろ)
  • 営業担当者の責任にはしない

つまり、「すぐに株価は上がり始めるだろうからそれまで時間稼ぎをしろ」と命令したのである。

含み損を抱えた特金契約の解消法は、
  1. 株価が上がってようが下がってようが、現状の証券を一旦証券会社の保護から外して引き渡す(損失はユーザーへ)。
  2. 損失を確定した状態で契約を解除し払い戻す(損失はユーザーへ)。
  3. 現状の証券を一旦証券会社の保護から外して引き渡し、損失分またはそれに金利分を加えた分を現金その他の方法で補う(損失補填)。
  4. 現金その他の方法で保証した元本またはそれに金利を加えた分を払い戻す(損失補填)。

これに山一が行っている引き伸ばし策も併せて、すべての手段をどの証券会社も行っていた。しかし、その割合が違った。
業界トップの野村證券は大蔵省通達を盾に、損失をユーザーに飲ませる処理法を中心に実施した。すでに個人・小口ユーザーにウェイトを置いていた野村は、「今後の取引をしない」「主幹事から外す」「損害賠償請求を行う」と脅してきたユーザーに対し、「大蔵省が法的措置に出ればユーザー側も違法となる」と言って突っぱねることができた。これもかなりヤクザではあるが……
また大和証券日興証券では、損失補填を行って契約を解消する方法が主体だった。1991年に法改正が実施されてからは、法規制回避の手段として一旦損害賠償請求を提訴してもらい、直ちに和解して合法的に損失分を支払うといういわば「なんちゃって訴訟」を行うというもの。

だが、山一證券は含み損を抱える特金契約の解消が進まず、先送りが続いた。大口法人ユーザーが主体で、しかもそのほとんどに「ニギリ」が付いている山一では、ユーザーに損失を飲ませて解約したら顧客を失い、経営体力も失っているためたちまち倒産してしまう。かと言って、損失補填で解消したら、その損益だけで山一自身が吹っ飛んでしまう。

1991年に損失補填を明文として禁止し、同時に営業特金も禁止した、証券取引法の改正が行われ、1992年1月から施行されたことにより、1991年中に「ニギリ」付きの特金をすべて解消する必要が出てきた。各社は、どうしても解消しきれない特金については、海外に「飛ばし」て沈めたようである。この「飛ばし」先として使われたのが、所謂タックスヘイブンだった。
実はタックスヘイブンの本当の問題はこれである。よく課税逃れと言われるが、実際には負債の「飛ばし」先として多用され、規模の割に少額の黒字か少額の赤字である(実はこの時点で自転車操業をやっている証拠)大企業が突然破綻して、後から検査したら大量の負債を「飛ばし」た粉飾決算の果てだったりということが相次いだ。もちろん、アメリカのエンロンリーマンブラザーズもやっていた。
  • 課税逃れは実はあんまり現実的ではない。せっかく上げた利益を為替変動で吹っ飛ばしてしまうリスクが付きまとうためだ。

しかし、山一は含み損債がの額が大きすぎて海外に「飛ばす」ことすらほぼ不可能になっていた。

一方、引き伸ばし策を指示した当の行平が、9月に損失補填問題で国会に証人喚問された際に「これ以上問題のある取引は(我が社には)ない」と証言してしまったため、事実上損失補填そのものができなくなってしまった。もはや山一證券は含み損債を「飛ばし」続けるしかなくなったのである。
もうこの時には証券が元々どの特金契約からどういう経路を経て「飛ばし」てきたのかわけわかんなくなっていて、ひたすら「飛ばし」先を求めてさまようさまを社内では宇宙遊泳と呼んでいる様だった。

しかし山一證券の経営陣は、この期に及んでも早期の株価回復があると信じて楽観視していた。

損失補填事件

さて、この頃国内の証券各社からやたらめったら「飛ばし」債が集まってきている会社があった。それが東急百貨店である。1992年の会社法改正前は、決算期が7月スットボケた時期にやっていた東急百貨店は、バブル崩壊以降「飛ばし」先として国内の含み損債が集まっていた。
また、東急百貨店自身、バブルで投資による損害を出しており、「飛ばし」を引き受ければ一定の利息を受け取れるため、積極的に「飛ばし」を受けていた。
しかし1992年1月、半期決算を迎えた東急百貨店は、損失補填に法規制のかかった状況ではこれ以上「飛ばし」を引き受けられないと、証券会社各社に「1月27日までに(『飛ばし』の)証券を簿価で引き取らないと詐欺罪で訴える」と一方的に通告してきたのだ。
山一には青天の霹靂だった。というのも、東急百貨店は「『飛ばし』のメッカ」であり、損失補填が明るみに出れば東急百貨店のダメージも計り知れないからだ。なので、山一では東急百貨店に「飛ばし」た証券の含み損を東急百貨店に「飲ませる」つもりで交渉していた。しかし、前年8月から続けられてきた交渉は行き詰まりを見せていた。

実は東急百貨店の強気には理由があった。東急百貨店の親会社は言うまでもなく東急電鉄である。
一方、この頃国は国鉄が爆発したかけらのひとつもといJR東日本の上場を目指していた。その際、株式売出し価について、同業者である東急電鉄を参考にすることになっていた。
つまり、東急の株価が暴落すると国も大損害を負ってしまう。なので行政は東急の味方をする、最悪でも何人か“トカゲのしっぽ”にすれば東急はそれほどダメージを追わなくて済み、全国から集ってきた、時価評価では同じ重量のコピー用紙のほうがまだ高価だろうゴミ債の損害額(「飛ばし」続けてきた挙げ句の果ての代物なので、すでに簿価(東急百貨店が買った時の値段≒「飛ばし」始めた時の値段+積み重なってきた金利分)と時価とは絶望的に乖離していた)の含み損を飲まされるよりは全然安上がり、と計算したのだろう。

件の海外に「飛ばす」件も、ある人物に、山一の副社長である三木淳夫が、東急百貨店の「飛ばし」債の問題を相談に行った際、「(ある大手の一社は)海外に飛ばすそうですよ」と教唆したとのことである(ただし、三木の証言以外の証拠はない)。

この際、「飛ばし」ている証券を集めて沈めることにした。しかし、海外に「飛ばす」には額面が大きすぎて不可能なので、国内で実行することにした。何やってんのか全くわからない名前の構成人員も全く架空のペーパーカンパニー5社を設立して、最終的にその5社に「飛ばし」て沈めた。こうして自前の監視下へ「沈めた」証券の含み損は1750億円に上った。これは「簿外債務」と呼ばれた。

その後、1995年まではペーパーカンパニー間で「飛ばし」を続けていた。負債額が200億円を越えると、商法特例法に基づいて会計監査を受け報告する必要があった為、それを逃れるためである。しかし「飛ばす」と約束利回り分含み損額が増える上、大量の証券が移動するためこれらが露見する可能性があるため、以降はほとんど行われなくなったと言う。

また、山一は海外展開していたため海外でも不良債権が存在していた。これも、「飛ばし」て沈めることになった。海外の債権をわざわざ国内に戻して日本の大蔵省に知られるリスクを犯す必要はないので、これはタックスヘイブンのバハマにペーパーカンパニーをつくって「沈め」た。

こうしてペーパーカンパニーを使った簿外債務化が完了した1992年6月、行平は健康状態を理由に社長を辞して会長職に収まり、行平の子飼いの後輩であり、この簿外債務化に主体的に関与した副社長の三木が社長に就任した。

お前らじつにばかだな

山一証券は1993年に大蔵省の定例検査を受けた。山一はこの時2期連続の経常赤字を計上しており、そのことを懸念した大蔵省は山一に経営改善計画の提出を迫った。

この際、いっそ簿外債務を開示して償却してしまおうという意見もあったのだが、償却後の自己資本率が120%を下回ってしまい、こうなると、証券会社は業務停止命令を受けてしまうため、これを危惧した三木によって否定された。

……まぁ、三木が実際に案じていたのは、行平と自身が矢面に立たされることだったんだが。

で、三木がこう言い出した根底は「大蔵省は簿外債務の存在には気付いていない」という前提があった。

大蔵省の視点に立つと

上記にある、三木に海外への「飛ばし」を教唆した人物というのが大蔵省証券局の局長だった。つまり、最初から大蔵省が知らないワケがないのである。
この時山一の担当者に大蔵省が発言した内容は、後に業務停止後の山一の社内調査で判明したものが「1998年社内調査報告書」に記述されているのだが、

「腐ったものを切り捨て」「シビアな経営をして欲しい」

といったかなり厳しい表現が含まれている。
……どう考えても知ってるよこれ。
「ゲロるもんゲロってさっさと楽になれ」「対応次第では潰す」つってるだろこれ
しかもこの時点で、実際山一外部からの最後の「飛ばし」の一部が大蔵省に掴まれていた他、海外のペーパーカンパニーの存在を知っていた。
海外のペーパーカンパニーを大蔵省が察知していることは山一でも認識しており、このペーパーカンパニーからは含み損債を「逃し」ている。
なんで三木や行平は大蔵省は知らない、などとノーテンキ極まりない思い込みをしたのだろうか。

そんで結局

山一では楽観論が広がり……と言うより、ボスである行平、三木が「大蔵省は知らない」と判断したため、「カラスも白いと言えば白い」の理論でそれが前提となり、簿外債務は隠したまま経営改善計画書をつくって大蔵省に提出した。
大蔵省は多分この時の件で「山一が危機に陥っても救済せず潰す」と決めたのではないだろうか?

この時点で山一證券グループの負債は簿外債務を除いて6300億円にも達しており、簿外債務を含めた場合債務超過の恐れがあった。

最後のチャンス

簿外債務を「沈め」て以降、山一證券の経営状況は芳しくなく、1994年を除いてはついに一度も黒字化しなかった。そんな中で、1995年、黒字化した唯一の年次決算も虚しく赤字化が避けられないと分かった。

そんな中、危機感を抱いた企画室は、1月と7月の2度に渡って、「簿外債務を含めた再建計画を練るべき」と提案した。この中では、早期退職による人員削減や賃金カット、設備投資の中止、不良子会社の処分を盛り込んだ抜本的な再建の手順が提案された。
この企画室というのは、山一のブレインが必ず一度は所属する主流派のコアみたいな部署だった。
しかし、そこから悲鳴が上がるような状況になっても、自分の保身と体面の保護にこだわる行平と三木は、「ドラスティックな計画をやる前に、もっと詰めることがある」とこれを拒否。
山一は自浄作用による経営再建の最後のチャンスを活かすことなく終わった。

断末魔の山一證券

1995年、貸金業を行う山一ファイナンスの財務状態が急激に悪化した。これを11月からの大蔵省検査で大蔵省に知られ、翌1996年7月、山一ファイナンスの財務悪化への対応を回答するよう迫られた。
これは“再建計画の提出”ではなかったのだが、山一社内では本体から資本を注入して再建するしかないと結論付けられた。必要とする額は1500億円。
うんそれだけあれば簿外債務ほとんど無くせるよね?
当然、対応会議の参加者からも「こんな額を出せるんなら簿外債務を償却するのが先ではないか?」という意見が出たが、これも行平・三木コンビの反対により実現せず、山一ファイナンスへの資本注入が行われた。

この結果、1997年3月期の決算で山一證券は約1600億円という史上最悪の赤字を出した。

終焉

行平・三木退陣

1997年、第一勧銀(現・みずほ銀行の一部)証券会社が総会屋・小池隆一に対して利益供与していた事実が明るみになるという総会屋利益供与事件(小池事件)が発生した。山一證券でも、行平会長、三木社長以下、主立った本社役員11人が全員引責辞任に追い込まれる事態になった。

クローザー・野澤正平

執行役員全員辞任という事態に至り、次期社長には野澤正平、会長には五月女正治が抜擢された。一応、役付きの政務だったが、野澤は山一ではほとんど顧みられてもいなかった個人投資家向けの営業畑で、社長を打診された時は大阪支店長だった。同様に五月女も日陰の引受部出身だった。これは、役員人事において対外的には首脳部を刷新してイメージの回復を迫られる一方、行平は自身の影響を失って簿外債務の公表と責任追及が行われないよう、敢えて力を持たない野澤や五月女をトップに付け、傀儡としてコントロールするつもりだったのだ。引責辞任したはずの11人の役員は、全員が顧問としてぶら下がった。

実は、簿外債務について知っているのは、役員の中でもごく一部だった。末端の平役だった野澤や五月女にはこのことを知らなかった。一方で、簿外債務の管理人として、行平の子飼いと言える立場の人間がその下につけられていった。

しかし、この行平の考えは裏切られることになる。財務本部長、企画室長、債権本部長は、どうも野澤が三木・行平から何も聞いていないようだと危機感を抱き、野澤・五月女とミーティングを組んで、山一證券が抱えている含み損を説明した。この時、その額は年次処理と株価変動により2600億円に膨らんでいた。この企画室長は、1995年に2度の再建計画を提案した人物だった。そのことを聞かされた野澤と五月女は愕然としたと言う。1997年8月16日、就任から5日目だった。

8月18日、野澤は簿外債務の公開と一括償却を目的としたプロジェクトチームを立ち上げさせ、再建計画の作成を命じた。もはや大リストラは避けられず、野澤はその方向で指示したと言われる。
19日、野澤と五月女は行平に会いに行き、「どうするつもりだったんですか」と問い質すと、行平はしれっと「とにかく業績をあげて消していくことだ。ソフトランディングすることだよ」といったと言う。
20日、前日に続いて、行平に加えて三木を含む4人の元役員である顧問と経営再建について打ち合わせたが、やはり事態を正しく認識せず、責任回避のための現実逃避に終止した。野澤と五月女は、顧問に頼らず主体的に再建を図ることとした。

しかし、調査の結果、9月には自主再建は絶望的であることがわかった。それどころか、11月には資金ショートして経営不可能だった。10月に入り、まずメインバンクの富士銀行(現・みずほ銀行の一部)に簿外債務の存在を明かし、経営再建への協力を要請したが、富士銀行は条件付きの小規模な支援条件しか提示しなかった。外資とも継続的に接触したが、色好い返事はもらえなかった。11月に入り、もはや公的補填以外に破綻回避はなかった。

小池事件の捜査が進み、三木以下の前経営陣から8人が逮捕される。さらに、三木ら3人が別の不正取引の容疑で再逮捕された。これにより、山一證券の株価が市場で売られ、資金繰りは更に悪化した。

11月14日、大蔵省証券局長に含み損の存在と、再建策を練っていることを伝えた。この時証券局長は「もっと早く来るかと思いました」といったらしい。やっぱり知ってたんだ

11月19日に証券局長に呼び出され、野澤と企画室長が大蔵省へ向かうが、そこで証券局長から「自主廃業を選択してもらいたい」と言われた。26日が限界なので、そこで大蔵省から簿外債務の存在について公表すると言われた。

顧問弁護士などと相談するも、会社更生法などの“倒産”は難しいとされた。11月20日、東京地裁からは「『飛ばし』があると(会社更生法適用は)難しい」と言われる。
同日、再度大蔵省に行き支援要請をするも、逆に簿外債務の存在がリークしており、26日も待てないと言われてしまう。

野澤、五月女らは取締役会と資金繰りとを繰り返したが、もはや山一證券自体に信用がなく、実のあるものは得られないまま、11月21日の市場が終了。金曜日で、しかも週明け月曜日は振替休日の為、最後の営業日だった。翌日、日経新聞に自主廃業のニュースがスクープされ、もはやこれまでとなった。

11月24日、早朝の臨時取締役会で自主廃業の手続きに移ることを同意、11時半から記者会見を開いた。
ここで社長の野澤正平は「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって社員は悪くありませんから! どうか社員に応援をしてやってください優秀な社員がたくさんいますよろしくお願い申し上げます私達が悪いんです社員は悪くございません」と号泣しながら頭を下げた。
この映像がメディアで繰り返し流れ、今でも時折思い出されるほど有名になった。
野澤は、「ギリギリまで頑張ったがダメだったという悔しさ」と、「社員とその家族3万人を路頭に迷わせてしまったという絶望感」から、このような会見になってしまったと回顧している。

11月25日、大蔵省から「業務の制限」と「資産の保全」の命令が下り、山一證券は破綻した。
この年は、奇しくも山一證券創業100周年の年であった。

その後

自主廃業のニュースは山一の大半の社員は報道で知ったという。それまでは創業100周年の記念行事が繰り返されて華やかな日々が続いていたが、この日を皮切りに一転した。
この時点では法人格自体はまだ解散されていないが、残務処理のための僅かな人数を残して、大半の社員は雇い止めとなった。
野澤ら経営陣は、当初は強い批判も浴びたが、野澤は再就職先の決まらない社員を一人ひとり訪ねて支援するなど、真面目で実直、温厚で熱心な人柄が買われ、多くの元山一社員から慕われていると言う。野澤・五月女らが就任前に粉飾決済にほとんど関わっていないこともあり、野澤は「上司にしたい社長」とまで言われた。
ただ、一方で破綻直前まで、山一は個人投資家に自社株を言葉巧みに買わせていた。野澤の指示があったかどうかは不明だが、対個人ということはつまり、野澤の属するグループが行ったことであるといえる。結局この時株を購入した投資家は、破綻によって損害を被ってしまった。

当の行平・三木らは自分たちの責任を認めず、相変わらず「山一は再建できた」などとうそぶいていたが、翌年3月に特別背任・証券取引法違反の容疑で逮捕起訴され、執行猶予付きの実刑判決を受けた。
この後、2人は財界の表舞台に再び立つことはないまま、確定判決から間もなくの2008年、2010年に相次いで死去した。

一方、野澤はその人柄を買われて2000年にシリコンコンテンツの会長についたのを皮切りに、財界に復帰。2004年には当初渋るも、強く請われてセンチュリー証券の社長に就任。2009年に引退した。その後も、金融業の元営業マンとしてセミナーに呼ばれたり、時折金融業の相談役を努めたりしている。

法人格は債務整理のため2005年まで存続したが、結局、超過分が生産できず、自主廃業は達成されなかった。2005年に残る債権者集会が行われ、その同意の下、東京地裁が破産宣告を行い、2005年1月26日、1897年創業の山一證券株式会社は消滅した。

「山一證券」の復活

元社員の融資らは再起のため、2004年にIBS証券を発足させた。当初、山一證券と名乗りたい旨を野澤に伝えたが、野澤は「あのようなイメージの良くない社号は使うものではない」と、まだ商標権が「旧」山一にあることを理由に退けたと言う。

解散後の2011年にIBS山一証券と改名、ようやく「復活」を果たした。2014年7月にはIBSの文字が外れ、名実ともに(新)山一證券株式会社となった。

外部リンク

「現在の」山一証券(かつてのIBS証券)の公式サイト

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