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田中角栄

たなかかくえい

大正7年(1918年)5月4日~平成5年(1993年)12月16日)  第64・65代内閣総理大臣。
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概要編集

緻密且つ大胆な政治姿勢から、「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取った豪腕政治家。号を「越山」と名乗り、角栄の後援会は「越山会」と呼ばれた。また高等教育を受けずに首相になったことから「今太閤」とも称えられた。

日中国交正常化や全国的開発事業を展開し、ロッキード事件を起こして政界引退後も、田中派の政治家を通じて影響力を行使し、「闇将軍」の異名で呼ばれた。実の娘に政治家田中真紀子議員がいる。


一度会った人は決して忘れない、「できる」と断言したことは必ず実行する、これと見込んだ人物には助力を惜しまないといった人柄から人望が極めて篤く、角栄が可愛がった後輩政治家には、金丸信竹下登小沢一郎羽田孜橋本龍太郎小渕恵三野中広務渡部恒三二階俊博など、後の政界において重きをなした人物が少なくない。


毀誉褒貶の多い人物で、「日本の政治を金権で汚染した」と非難された一方、驚くほど人気のある政治家でもあった。他の政治家にはない庶民性、大衆性を持つからだろうか。雪と不順な天候に苦しみつつ戦後の太平洋側の開発重視・東京一極集中政策に立ち遅れを余儀なくされた日本海側の人々、高度成長を底辺で支えた集団就職組などは根強い「角さんファン」であった。


苦しい若年期編集

田中角栄は大正7年(1918年)、新潟県西山町に生まれた。父親の借金のために母親は働き、角栄自身も親戚のところで金の工面に苦労した。16歳で上京し、住み込み店員しながら、夜学で資格をとり、昭和11年(1936年)に土建会社を設立した。

兵役で中国へ行き、大病で死線を彷徨うが、奇跡的に助かり、除隊後に東京に設計事務所を開いた。

家主の一人娘、はな子と昭和17年(1942年)に結婚したが、妻に三つの誓いをさせられた。

第一、出て行けと言わないこと。

第二、足げにしないこと。

第三、将来、二重橋を渡る日があったら同伴すること。

「それ以外はどんなことにも耐えます」と妻に言い渡された。


国政の世界へ編集

終戦後の昭和22年(1947年)、新潟三区から28歳で代議士に初当選。料亭の女将の紹介で実力者の吉田茂と知り合い、「吉田学校」の末席に連なった。生徒には後に首相になった池田勇人佐藤栄作といった大物がいた。

しかし翌年に「石炭疑惑」に連座して逮捕された。片山哲内閣が進めていた石炭炭鉱に反対する炭坑業者から百万円を受け取った、という容疑であった。田中は獄中から立候補して二位で当選し、裁判は二審で無罪になった。「角栄はいつも刑務所の塀の上を駆け回っている男だ」と師、吉田茂に評された。


昭和32年(1957年)、田中は39歳の時に岸信介内閣の郵政大臣に就任した。

テレビ局民放新聞社の統合系列化を推進し、現在のテレビ放送の枠組みを完成させた。東京タワーが建築基準法の高さ制限で建設が滞っていると知ると、法改正を進め、東京タワー完成に尽力した。

NHK番組で浪花節をうなって視聴者を驚かせたが、普段のダミ声は浪曲を歌っていたためであろうか。しかし、政治家・角栄となるとロマンチックな顔は消え、「コンピューター付きブルドーザー」に変貌、緻密な計算のもと現ナマとポストを餌に味方を増やし、政敵は蹴飛ばす。

その手腕を買われて大蔵大臣に抜擢され、自由民主党幹事長を務めた後、「日本列島改造論」を掲げて、昭和47年(1972年)、自民党総裁選で勝ち、首相の座に就いた。

1970年代頃から福田赳夫とは権力争いを長きにわたり続け「角福戦争」と呼ばれた。


田中内閣編集

田中内閣では日中国交正常化と日本列島改造論が内外政策での最大の特徴と成果となった。



外交編集

政権に就いた田中は中華人民共和国との国交回復を最重要課題に掲げた。そのためには戦後処理である賠償問題と「二つの中国」問題が存在した。

大戦後、国共内戦に勝利して中原の覇権を握った共産党率いる毛沢東は中華人民共和国を成立させ、国民党率いる蒋介石台湾へ敗走。台湾に留まる中華民国国際連合常任理事国となっていたが、国際的地位は低下していた。一方の中国は中ソ対立での国際的孤立や文化大革命の混乱で新たな模索が求められていた。

日本は中華民国と日華平和条約を結んでいたが、大陸中国との関係改善は台湾と外交断絶することになり、反対意見が多数噴出した。

それでも角栄は日中交渉を推し進め、アメリカ合衆国大統領ニクソンにもハワイで会談した際に了解を取り付けた。そのニクソンは昭和47年(1972年)2月に電撃的に訪中し首脳会談を実現。中国は対ソ牽制のために米中関係改善を進めていた。このことにより、日本政府も対中政策の方針転換が迫られた。

同年9月、大平正芳外務大臣を伴って北京を訪問、毛沢東主席や周恩来首相と会談した。交渉の結果、「復交三原則」に基づき調印。日中は国交正常化を実現し、中国大使館が設置された。その一方で日本は中華民国=台湾と外交断絶となり、その後の中華民国はさらに国連脱退へと続いた。


角栄はさらにソ連を昭和48年(1973年)に訪問し、レオニード・ブレジネフ書記長と会談。北方領土問題交渉を進めた。

中東戦争オイルショックが起こると、石油確保のために角栄は中東政策をイスラエル支持からアラブ寄りに方針転換を図り、中東以外からの石油輸入も模索した。しかし、イスラエル支持のアメリカから不興を買い、訪日した大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーは強気の角栄に激怒した。

ブラジルに対して農業開発協力交渉を進め、ブラジルの農業向上に貢献した。

在任中に訪日中の金大中が韓国情報部KCIAに拉致され、危うく殺害されそうになる事件が発生。しかし、角栄は韓国朴正煕政権を支持する立場上、韓国側から一方的な政治決着を受け入れるしかなかった。

インドネシアを訪問した際はジャカルタ反日デモに遭ってしまう。


内政編集

国内政策で掲げたのが「日本列島改造論」。寒地の貧しい農家で育った角栄にとって、地方の活性化は悲願であった。

工業地帯を地方へ分散し、雇用問題解決を図った。新幹線高速道路などの高速交通網を全国規模で整備を進め、過疎と人口密集の解決を打ち出した。

また、生前では実現しなかったが、テレビ局とラジオ局増強による都市部と地方の情報格差是正と一家に一台のコンピューターの推進と検索情報網の確立の構想を持っており、これらは平成において実現した(このうち角栄の地元である新潟県では1983年10月に民放テレビ4局化が彼の存命中に達成された)。


しかし、列島改造論は土地の投機的売買を呼び、地価の異常高騰を招き、さらには公共事業に絡む利権を生み、族議員が暗躍し、自然破壊も悪化してしまう。人口変動も予想に反して過疎と首都一極化を加速させてしまった。

そればかりか、オイルショックが重なって「狂乱物価」と呼ばれる物価急上昇が起こり、日本経済は混乱。支持率も低下していった。


昭和49年(1974年)10月、文藝春秋に田中ファミリー企業群による信濃川河川敷問題等の資産形成を暴かれ、これが田中金脈問題として金銭の不正流れが問題視され、与野党双方から「金権政治」だと批判が相次ぎ、11月に総辞職した。


ロッキード事件編集

昭和51年(1976年)2月4日、米国上院・多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社が航空機売り込みの工作費として1000万ドル(約30億円)を極秘のうちに使っていた事実が暴露された。

証人として出席したロッキード社の会計管理人、アーサー・ヤング公認会計事務所のウィリアム・フレンドレーは「約700万ドルが、ロッキード社の秘密代理人だった児玉誉士夫に手渡された」と証言した。公表した資料には、児玉の書いた領収書を英語に書き直した物のコピー、ヒロシ・イトーなる人物が署名した「ピーナッツ受領」の領収書など5点があった。

丸紅の伊藤宏専務2日後、自分の署名であることを認めた。また、ロッキード社のアーチボルド・コーチャン副会長は「児玉に払った21億円のうちいくらかが国際興業社の小佐野賢治社主に渡った。丸紅の伊藤宏専務に渡った金は日本政府関係者(複数)に支払われた」と証言した。

政府関係者とは誰か? ロッキード疑惑は日本の政界を揺るがせた。


東京地検特捜部と警視庁の捜査によると、売り込み工作は昭和47年8月の田中・ニクソン会談で行われた。ロッキード社からは3つのルートを通じて20億円から30億円もの金が流れた。角栄はそのうち丸紅ルートから5億円を受け取ったという。全日空ルートからは共産党を除く与野党数十人の国会議員に贈られた。しかし、児玉が病気を理由に入院して事情聴取ができなかったため解明されなかった。

同年7月27日、角栄は外国為替法違反などの疑いで逮捕された。容疑は角栄が昭和48年(1973年)8月から7ヶ月間に4回にわたり計5億円を受け取った、というものであった。東京地検は、角栄を「総理の地位を利用した受託収賄罪」で追起訴した。

昭和58年(1983年)10月12日の第一審判決は有罪(懲役4年、追徴金5億円)となった。ピンチに追い込まれた角栄を救ったのは2ヶ月後の総選挙の結果であった。再び獄中から立候補した角栄は過去最高の22万票を獲得してトップ当選した。これは新潟三区有権者数の47パーセントを占めるという驚異的な数字だった。「こりゃまさに百姓一揆だな」と角栄は感激した。

しかし角栄の熱心な支持者は「新潟三区」と「永田町における田中軍団」のみであり、一般国民やマスコミからは孤立していた。長年の盟友、大平が昭和60年(1985年)に死去してから、角栄の唯一の拠り所は「自派閥の拡大と院政の強化」となった。このために飴とムチで目的達成のため狂奔したが、飴とは金とポストであり、ムチは田中派に入らないとその選挙区に対立候補を立てるという脅しであった。

何のための派閥拡大だったのだろうか。政治力を誇示することでロッキード裁判に圧力をかけようとしたのか、あるいは再び首相の座に返り咲いてロッキード事件の怨念を晴らそうとしたのか。


ロッキード事件には謎が多いという。角栄は何かを隠しているのではないだろうか。米国が角栄をトップの座から追いだす理由は何か。

角栄が首相時代にインドネシアやソ連など訪問して積極的に展開した「石油資源外交」が、ロックフェラーに代表される米英・石油メジャーの逆鱗に触れたのだという。ちなみに、事件の発端となった小包の届いた上院多国籍企業小委員会の委員長・チャーチ上院議員はロックフェラーのお抱え弁護士だった、という。


なお、同事件に対する田中角栄への裁判は有罪の第一審判決後に角栄が控訴。上告審の最中に角栄自身の死をもって公訴棄却{審理の打ち切り)となっている。

角栄の秘書官であった榎本敏夫も角栄と同日に外為法違反容疑で逮捕され、こちらは最高裁判所で有罪判決が確定。

角栄自身の裁判は公訴棄却だが、その首相秘書であった橋本の最高裁判所における有罪判決という形で角栄の5億円収受を認定した。


晩年編集

いずれにせよ、田中は自分の派閥を後継者に譲り渡す考えなど毛頭なく、ここに大きな問題が生じた。田中派の二階堂進が昭和59年(1984年)、自民党内の反主流派に担がれてトップの座を狙ったときは、これを押しつぶした。

しかし、昭和60年(1985年)2月7日、竹下登が50人の代議士を集めて「派閥内の派閥」を結成した時、もはや田中にはこれを抑える力がなかった。プライドの高い田中にはショックであった。

ウイスキーをがぶ飲みするようになり、この旗揚げから20日後に入院、軽い脳卒中という発表だったが、その後、入退院を繰り返し、平成5年(1993年)12月16日、「今太閤」田中角栄は永眠した。75歳であった。


エピソード編集

  • 角栄は訪中で晩餐会の翌日に漢詩を発表。

 國交途絶幾星霜。  国交途絶 幾星霜

 修好再開秋將到。  修好再開 秋将に到らんとす

 隣人眼温吾人迎。  隣人 眼 温かにして吾人を迎え

 北京空晴秋氣深。  北京 空 晴れて秋気深し

北京の空港で作ったという。この詩に題は付けられていない。

さらに角栄は毛沢東に東山魁夷画伯の「春暁」(二〇号)を贈って、周恩来に杉山寧画伯の「韵」(二〇号)を贈り、その返礼は毛沢東からの『楚辞集註』であった。

  • ソ連を訪れた際に秘書から「盗聴に十分気をつけてください」と忠告された。しかし発想を転換し、「石鹸が悪い、トイレットペーパーが悪いと大声で怒鳴ると、翌日には上等のものに変わっていた。盗聴されるのも良いものだ!」と笑って秘書に伝え絶句させたという。
  • 同姓同名の少年がおり、政治家の角栄がロッキード事件で逮捕されると学校でいじめを受けるようになり、家庭裁判所で改名を認められたという(昭和58年のことである)。
  • 愛人問題が多く、愛人との子供を多く作り、正妻亡き後にファーストレディを務めた娘の真紀子もこれには父を嫌った。そのうち認知されているのが判明しているのは、現在音楽評論家兼飲食店経営者である田中京と、その弟。長年仕えた秘書で「越山会の女王」と呼ばれた女性が設けた娘も角栄の子ではないかといわれているが認知しなかったため真相は不明のままであった。
  • ロッキード事件でもう表舞台に戻るのは難しくなっていたが、実母が亡くなった際の葬儀には3,000人が参列し、飾られた花輪の数は600本を超えたという。これでも実際に贈られた数より少ない(余りにも多過ぎて断ったらしい)。関越道全通前に車でわざわざ東京から6時間で駆け付けた議員や新潟空港まで飛行機を利用して車で参列した議員もいたという。
  • 「小学校までしか出ていない」といわれることが有るが、実際には戦前の高等小学校(今でいう中2まで)を出ており「現代ならば中卒相当」がより正確ないい方となる。
  • 自筆署名する際は「角」の字は真ん中の棒が下まで突き抜けている書体(中国語における「角」の字に近い)を使用していた。
  • 一級建築士の資格も持っており、本人は「一級建築士第1号」を称していたが、実際の認定番号は16000番台である。
  • まぁ、その~」が口癖で、当時は日本全国で物真似のネタにされた。


角栄の功罪編集

角栄は権力のために金をばら撒き、列島改造論によって自然破壊と金の汚職、地域人口の極端化、物価狂乱を招き、ついには自らも金権政治で政治生命を絶たれた人物として否定的な見方も多い。


しかし、角栄が構築・実現した事象やヴィジョンは平成日本の礎を築いたのは言うまでもない。新幹線と高速道路は日本の物流を支え、テレビ放送の枠組みを固めた。農村生まれゆえの発想から生まれた理想は地方の活性化と分権化の可能性と始まりになった。


外交面では、冷戦下において、西側陣営に身を置きつつもアメリカ一辺倒に陥らない外交姿勢をとり、日本と価値観の異なる国も含めた多角的・多方面での自主外交展開の可能性を見せた、現時点では最後の政権(角栄以前に多角外交を模索した首相に鳩山一郎石橋湛山がいる。鳩山由紀夫政権は「友愛外交」を当初は掲げたが結局は日米同盟最重視の外交方針に回帰してしまった)であった。21世紀以降の日中関係は芳しくないが、日中の経済的な互恵関係は非常に大きく、また後任の福田赳夫政権では、日中間の懸案であった戦後賠償問題を解決し、戦後処理に決着をつけたことからも高く評価される。


かつて政敵であった石原慎太郎は後に角栄の半生を書いた『天才』を出し、角栄の評価は上がってきている。


関連タグ編集

政治 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 中曽根康弘 竹下登 小沢一郎 三角大福中

新潟県 新潟 派閥 ロッキード ピーナッツ 日本列島改造論


ロッキード事件 汚職 汚職事件 犯罪者:仮にどれだけのことを成したとしても、汚職とは犯罪であり、ましてや国のトップとして国を導く立場である内閣総理大臣がそれを行うのは言語道断である。


文春砲:文藝春秋による上記の田中金脈問題暴露は、まさにこれの元祖である。


透明少年探偵アキラ:作中に田中角栄をモデルにしたキャラクターが登場。

ごんべえのあいむそ~り~:ごんべえのモデルが田中角栄とされる。


リンク編集

Wikipedia

コトバンク

田中角栄総裁時代

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