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三木武夫(みきたけお)は、日本政治家。第66代内閣総理大臣


人物編集

1907年(明治40年)3月17日徳島県の裕福な農家の家に生まれる。

明治大学卒業後、林内閣での解散によって1937年に行われた総選挙で、当時最年少記録の30歳で衆議院議員に初当選。以降、1988年(昭和63年)に議員在職中に死去するまで当選19回、51年あまりに亘って衆議院議員を務める。

協同民主党、国民協同党、国民民主党、改進党、日本民主党、自由民主党と次々と所属政党を変えていったことから、「バルカン政治家」(バルカン半島の政治家のように敵味方を目まぐるしく変えていくことから名付けられた)と呼ばれた。


田中角栄とはライバル関係。また、愛弟子として海部俊樹が有名。


三木内閣編集

三木内閣の成立の経緯編集

三木内閣が成立したきっかけになったのは、ライバルの田中角栄の金権政治が原因だった。田中は当時の自民党副総裁だった椎名悦三郎に政権を一時的に預かってほしいと頼まれた。その後再登板して総裁になるつもりだった。一方の椎名も暫定政権ではあるが総理大臣の座に意欲もあった。しかしながら健康の問題や総裁と首相の座を狙っていた大平正芳(当時は外務大臣で、自民党内最大派閥のリーダーであり田中派からの後押しもあった。)の反対もあり、椎名は調整役に回る事になった。総裁の座に立候補したのは三木を含め、大平正芳、福田赳夫中曽根康弘の4人だった。大平は公選による総裁の選出を求めたが、一方の三木や福田は数的にも不利であるので話し合いでの選出を求めた。結果的に意見がまとまらず、1974年(昭和49年)11月30日に椎名・三木・福田・大平・中曽根の5者による会談を行った。この会談では党三役(幹事長、財務委員長、経理局長)を総裁派閥から出さない事を決定し、椎名は翌日の12月1日に後継を決めると宣言した。翌12月1日に椎名は三木を総裁にすると発表した(椎名裁定)。理由として、池田勇人内閣時代に党組織調査会長を務めていた事や、党の近代化を訴えた事、クリーン三木として田中の金権政治問題の後始末を任せられるとして選ばれた。三木も「青天の霹靂」と語る程驚いていたが、実際には総裁に選ばれる事は知っていた。結果的に弱小派閥だった

三木が総裁となり内閣総理大臣になった。

難航した組閣と政治改革編集

三木内閣は成立したが組閣に三木は苦労した。まず、副首相兼経済企画庁長官に福田、農林大臣には安倍晋太郎を選んだが、環境庁長官には河野洋平の予定だったが党内の反発が強く断念、官房長官には海部俊樹、副官房長官に西岡武夫にするつもりだったが、三木の派閥にいた井出一太郎が直訴したため官房長官を井出、副官房長官に海部となった。この一件で河野と西岡は自民党を離れ新自由クラブを作った。結果的に組閣できたものの三木内閣はその後の政権運営で各派閥に振り回される事になる。

三木は政策として、公職選挙法改正案、政治資金規正法改正案の2つを衆議院に提出した。公職選挙法改正案は衆議院の定数を20増やした511とし、5つの選挙区の分区、立候補者の選挙区への寄付禁止を作った。一方の政治資金規正法改正案は自民党内部の反発が強かった。理由として、自民党の基盤が弱まり弱体化するとして反発の声が大きかった。結果的に法案は修正して企業や団体、個人の献金に対して上限を設定した。また各政治団体は選挙管理委員会や自治省に収支報告を義務化、一定額以上の献金があった場合、献金した個人名、企業、団体の名を公表することとした。政治資金規正法改正案は金権政治の脱却に対する適切な法案なのかと当初は疑問符されたが、後にリクルート事件や東京佐川急便事件という汚職事件が起き、三木の政治改革への姿勢はある程度持ち直した。

ロッキード事件と三木おろし編集

三木の政権運営は自民党の基盤を弱体化させているとして党内からの反発は日に日に大きくなっていった。そんな中、アメリカからとんでもない事件が飛び込んできた。ロッキード事件である。三木はロッキード事件の全容を解明するつもりであったが、自民党上層部はうやむやして終わらせたかった。結果、自民党内部は三木おろしを始める事になった。まず最初に三木おろしを始めたのは自民党副総裁の椎名だった。椎名は田中・大平・福田と会談し通常国会が終わるまでに三木内閣を退陣に追い込もうとした。しかし世論は「ロッキード隠し」だと批判し椎名主導による三木おろしは一時的に沈静化したが、田中角栄の逮捕により三木おろしは再び激化する。田中派は三木に対して怨念や憎悪を持ちはじめ椎名が始めた三木おろしの中核になり始めた。これに加担する形で、福田派に大平派、更には中間派も三木おろしに加わった。

その後、挙党体制確立協議会(挙党協)が結成され自民党全国会議員の三分の二以上が参加し、福田、大平を含む三木内閣の閣僚15名が参加した。挙党協は三木に退陣を要求したが三木はこれを拒否した。三木は福田と大平と会談した、退陣した後どちらがやるのか聞いたが、両名が決まってないと答えると決まってないのにやめろと言うのかと反撃した。結果三木おろしを凌いだ三木内閣だが衆議院議員総選挙で挙党協と対立した事がマイナスイメージとなり、過半数割れとなる249議席となり無所属の議員に公認を与えた事でギリギリ過半数を越えたが、三木は総選挙の責任を取り退陣を決意。次の総裁は直前に福田と大平が話し合い福田となり、福田赳夫が内閣総理大臣となる。


その後編集

退陣後も衆議院議員としては当選を重ねた。1988年、現職議員のまま他界。


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