概要
愛知県名古屋市出身の日本の政治家。内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、自由民主党総裁(第14代)、自由改革連合代表、新進党党首などを歴任した。
海部は「政治家の中で1番マリオが上手い」と豪語し,TVゲームを擁護したという。
経歴
三木派での活動
中央大学卒業後、地元選出の衆議院議員秘書となった。また、早稲田大学で法学の勉強を極め大学院にも進学したが、途中で退学。秘書をしていた議員は急死。1960年に衆議院議員総選挙に初出馬し、若干29歳で衆議院議員として初当選した。当選後は後に総理大臣を務める三木武夫の派閥に属し、三木が田中角栄との政争に敗れ党内での権力が失墜しても、派閥の長が変わり河本派となってもずっと同派に属し続けた。
水玉ネクタイの海部内閣
1989年、リクルート事件を発端とする政治不信を拭い去るため、弱小派閥の所属にもかかわらず、そのクリーンなイメージから竹下派などの大派閥の後押しを受けて総理大臣になった。総理就任後は日本初の女性官房長官の登用や夫婦揃っての行事参加など、当時では珍しい女性を前面に出した政治活動により女性層の支持を集め、1990年の衆議院総選挙では苦境の時代であった自民党を勝利に導いた。
しかし、政策面では大派閥の後押しを受けて担ぎ上げられた身である以上その大派閥の意向に頼らざるをえない状況となり、当時の有力議員であった竹下登、金丸信に事あるごとにお伺いを立てていたと言われている。
その証拠に当時の放映されていた『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』では海部のモデルとなったキャラクターの口癖が「幹事長とも相談しますが」であった。当時の幹事長は竹下派七奉行の一人だった小沢一郎だった。
だが、本人のクリーンなイメージによる国民受けの良さとバックの大物達の後ろ盾のお陰で政権は安定し、在任中の約2年半の間、衆議院では内閣不信任案すら出されなかった。この衆議院での不信任案採決が行われなかった期間は、現憲法下における最長記録となっている。在職期間では歴代20位。
貶められた宰相とその評価
1991年、自身が目玉政策として進めた政治改革関連法案が審議未了で廃案になった際、解散総選挙を思わせる発言をしたため党内の支持層が一気に反旗を翻し、次期総裁選での当選が絶望的になったため総辞職した。ただ、後に海部本人は発言が改ざんされて伝わったと述べており、党内の誰かが意図的に海部を総辞職に陥れたとも言われている。
元々海部の存在として当時党の支持率が低下していたことから自民党の「急場しのぎの看板」だったという何よりの証でもあるだろう。
実際先に上げた小沢は「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と前任に当たる宇野と比較して酷評し、海部の後に首相となった宮澤喜一は「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と独特の表現で海部を評価。
少数派閥出身という党内での基盤を持っていなかったという不運さなどもあり、必ずしも首相としては評価が高くなかった一方で、本人自身も想定外だった事やリクルート事件の汚染まみれで有力候補が軒並み身動きできない政局の中「リリーフ」として内閣を取り仕切った。
また国際平和協力、災害救援への自衛隊海外派遣に道を開き、日本の国際貢献活動を定着させたことには一定の評価を与えてしかるべきだろう。
総辞職後
1994年に当時の自民党総裁河野洋平が左派系の社会党党首村山富市を首班とする連立内閣を組もうとした事に反発し離党したが、その後復党して自民党の重鎮議員として国政の世界に身を置いていた。しかし、知名度の低下や比例区への重複立候補などの予防線を個人的な信条から行わなかったため2009年の総選挙で落選してしまい、そのまま政界を引退した。総理経験者の落選は約半世紀ぶりの珍事であり、当時マスコミでも報道された。
その後
インタビューなどを受け、多くの世論へと発信した。また、安倍晋三らからの評価が高く自民党を離党後に復党した際には「諸手を挙げて歓迎する」と言われたほどだった。
政界引退した後も多くの憲法9条改正における意見を発信した。
また一般社団法人世界連邦運動協会の会長を就任し、世界平和の必要性を多くの世代に伝えた。