来歴
昭和17年(1942年)5月24日、東京都生まれ。父の佐重喜は弁護士で政治家、母も政治家の娘という家庭にうまれた。幼少期に父の故郷である岩手県水沢市に疎開し、中学校の途中まで過ごす。東京に戻って後慶應義塾大学経済学部を卒業、弁護士を目指したものの父が急逝し跡を継ぐため断念し昭和44年(1969年)に自民党から立候補して当選し27歳で政治家デビュー。田中角栄・金丸信の子分筋となる。
兄弟構成だと上に姉が2人いる末っ子長男となっている。
間違いなく、全国の政治学や現代史を学ぶ学生(そして未来で日本史を学ぶ中高生)が一度は頭を抱える「平成5年以降の日本の政党の歴史」の暗記を難しくさせた張本人であり、その辺りについては一度弁明してもらいたいものである。
経歴
自民党議員時代
「闇将軍」「最強の一兵卒」などあだ名が多い。現在の小沢は「『原理』なき原理主義者」とか「田中政治のニヒリズムの申し子」などと評される。
長らく自民党の本流、田中~竹下派に属し、47歳にして就任した党幹事長時代には総裁候補者を事務所に呼びつける権力ぶりで「剛腕」とも言われた。今だとイメージができないが当時の左派からは軍国主義者みたいな言われ方をしていた。あらゆる意味で自民党政治の象徴でもあった。竹下派の分裂で小渕派に破れ、少数グループとなった。
破壊神小沢一郎
平成5年の宮沢政権不信任案可決では、不信任に投票、逆に自民党政権崩壊の元凶ともなり、細川政権樹立に大きく貢献する。その後も党(新進党)を作っては壊し、作っては壊し(自由党)の繰り返しで、遂には自民党や公明党と組んで連立政権を作ったかと思えばそこでも党を割り、民主党(日本)をつくることになる。
同時に数々のスキャンダルで名前が浮上、幾度となく入退院を繰り返し何度も「小沢一郎はもうダメだ」と言われつつもその度不死鳥・・・というか得体の知れない生物ぶりで、権力の中枢にいる人物で嫌う人間も多いが、支持する人間もまた多いというのは事実で、民主党の党代表選挙のほとんどが「親小沢」か「反小沢」かを焦点に争っていた点からもうかがえよう。
資金管理団体「陸山会」をめぐる政治資金規正法違反で党員資格停止状態にあったが、平成24年5月10日、停止処分は解除されまたも復活した。
近年の政治家としては珍しく住み込みの弟子達を抱えており、後に議員となり彼絡みの事件で逮捕された石川知裕もその1人である。汚職事件報道の際に「風呂上がりに裸でふんぞり返り、弟子達に団扇で煽がせて涼んでいた」との報道が一部あり、マニアな腐女子上級者以外をドン引きさせた。
小沢教
一方で非常に熱烈な支持者が一定存在し、弟子である石川知裕・青木愛議員や三宅雪子・谷亮子などの取り巻き等はもちろんのこと、マスコミでも日刊ゲンダイや上杉隆など熱烈な支持者がおり度々強烈な擁護記事を書かれている。そのため一部では小沢教とも呼ばれる。また妻(竹下登の弟竹下亘の妻とは姉妹関係である)の実家である新潟にあるゼネコンの福田組、その他東北のゼネコンなどを票田とした強力な地盤を持っていた。
しかし平成24年(2012年)6月に長年彼とその強力な選挙地盤を支えてきた妻が3人の息子達とともに造反、決別宣言を兼ねた暴露文を公表、これは後に一部個人名を伏せて週刊文春に全文が掲載された。これによると妻が一番我慢がならなかったのが東日本大震災の際、放射能を恐れるあまり早々に逃げ出し被災地である地元を顧みなかったことだったという。(もっとも、小沢一郎の事務所はこの報道を「全くのでたらめ」と否定したという)地元岩手の後援組織も解散し、さらなる窮地に立たされた。
一方で、ネット上で熱心な小沢一郎支持者も多く存在し、彼らの事を小沢信者、或いはオザシンとも言われている。
壊し屋伝説は続く
平成24年(2012年)に消費税増税法案の賛否を巡って民主執行部と対立し、小沢派議員を引き連れ離党し、新党「国民の生活が第一」を立ち上げた。…が半年もしないうちにそれも解散して日本未来の党に合流、そこも1ヶ月でぶっ壊して乗っ取り生活の党にしてしまうなど相変わらずである。
しかし平成26年(2014年)12月の衆議院選挙では党自体も最初から苦戦し、小沢自身も今まで地元を守って来た妻が既に離婚していて頼れる者がなくなったため自ら地元入りする程であった。結果は選挙区で当選したが、当選者は小沢一郎と玉城デニーの二人に留まり、かつての影響力が低下した事が明らかになった。政党要件確保のために山本太郎に呼びかけて合流し、山本の希望により「生活の党と山本太郎となかまたち」という党名に変更。自身と山本の二人で共同代表に就任した。
2010年代後半
平成27年(2015年)8月の平和安全法制に関する審議以降、民主党や共産党らが推し進める「野党共闘路線」に同調した。小沢と共産党の共闘、20世紀から来た人が聞いたら信じられないことだろう。
平成28年(2016年)10月12日に政党名を「自由党」に変更、代表も小沢のみの単独体制へと戻った。かつて自身が所属していた党と同じ名称にした理由について、小沢は「原点回帰」だとしている。
しかし、平成29年(2017年)に入ってから他の自由党の党員である森裕子や山本太郎等を含めてメディアへの出演が激増した。
森友学園や加計学園での安部政権一強による弊害を次々と指摘している。
また、週刊ポスト、日刊ゲンダイ、AERAなどでは小沢一郎の特集記事も掲載され、内容の多くは野党が不甲斐ないから安倍政権が長く続くとまで述べた。
尚、天皇を尊重する姿勢から特例法に関しては反対であると同時に、改憲に肯定的ながらも安倍政権での改憲※1には反対している。
更に、女系天皇は存在しても良いと公言しており、女性宮家創設に前向きな姿勢を示している。
平成29年(2017年)10月22日の選挙では岩手3区で無所属で出馬し、すぐに当確した。
当初は、希望の党と連携する予定だったが、前原誠司と小池百合子の裏切りにより、共産党と直ぐに連携し、当選した。
その後、首班指名投票では立憲民主党の枝野幸男氏を指名し、立憲民主党との連携で野党共闘を進めた。
12月13日には自身の本である『小沢一郎の権力論』を発刊した。
平成30年(2018年)に入ってから、立憲民主党の枝野幸男を中心とする野党共闘を更に強化させ、森友学園や加計学園問題に更に追求して、一時期落ちた力も徐々に復権した。
そして平成30年(2018年)7月15・16日に今まで政治的な対立をしていた小泉純一郎と脱原発で自身の政治塾の講演を行い、小泉純一郎と共に脱原発で協力する方針を示した。
同時に西日本豪雨の際に安倍晋三や麻生太郎の懐に入らないようにある方法で金融支援した※2。
2020年代
令和3年(2021年)の第49回衆議院議員選挙では小選挙区において藤原崇に敗れ、政治家人生で初の落選。比例代表で復活しているが、かつてほどの影響力は失われたことを示す結果となった。
令和4年(2022年)に起こった安倍晋三銃撃事件においては、「社会が安定して良い政治が行われていれば、こんな過激な事件は起きない。自民党がおごり高ぶり、勝手なことをやった結果だ」と言い批判を浴びた。立憲民主党として本件を「テロリズム」「民主主義の破壊」と強く非難し哀悼の意を表明している中での発言だったため、泉代表によりかなり強く注意を受けた模様。
なぜ小沢は内閣総理大臣になれないのか?
若くして自民党のナンバー2とも言われる党幹事長に就任し、自民党からの政権交代を実現させた剛腕を持っていながらも小沢だが「壊し屋」としての評価こそあれど民主党政権の時でさえも内閣総理大臣の就任も現在に至るまで実現できていない。
以下に理由が挙げられる。
政治資金問題
政治の師匠としてあげられる田中角栄や金丸信などに、彼の師匠には政治資金で問題が多くあった政治家が多い。また、本人も資金管理団体「陸山会」をめぐる政治資金規正法違反で党員資格を失う憂き目を見た。
人望の無さ
かつて自民党内で盟友であった梶山静六からは「非情な政治家」と突き放され、自民党内で一六戦争と呼ばれる激しい対立が生まれ小沢が自民党を離党するきっかけともなる。
その後もその剛腕ぶりから多くの人を寄せ付けるものの、最終的に袂を分かつ議員は多くおり、その代表的人物として小池百合子や二階俊博、石破茂が挙げられる。
小池は「小沢さんを取り巻く人が抱く感情の変遷には、3段階ある。第1段階は、小沢さんを恐れ多く思う。私も『日本を変えるのは、そんじょそこらの人にはできないが、小沢さんならできる』と思っていた。第2段階は『すごい』と『えっ?』の間を行ったり来たりする。第3段階は『enough(もう十分)』と言って去っていく。新党についていったのは第1、第2段階の人。参加しなかったのは第3段階の人でしょう」と評し、小沢に引き寄せられながらも最終的に冷めていくその様を明確に説明している。
あくまで政権奪取ありきの姿勢
以下のように評されるように、田中角栄の数は正義を標榜して集団を作ることは出来るがそこから先は駆け引きなどが雑でありあくまでも「政権奪還ありき」のものに終始していると言える。一方で、小選挙区制導入をしたことからも選挙の上手さには定評があったため、大衆迎合が巧みだったともいえる。
自民党総裁も務めた谷垣禎一
「野党の今の離合集散の動きの中に、いまだに常に小沢さんがいること自体、小沢一郎という人のすごさだと思います。けれども、野党がなかなかまとまらずにいるのを見ていると、小沢さんのやってきたことは何になっているのだろうという疑問もわいてきます。」
前述した小池
「極論すれば、小沢氏の政治行動の基準は、わずか二枚のカードに集約される、と。それは『政局カード』と『理念カード』である。具体的にいえば、『政局カード』とは持論である政権交代という錦の御旗を立てることであり、『理念カード』とは安全保障を中心にした政策構想である。小沢氏というと政治的駆け引きに長けているように見えるが、決してそんなことはない。むしろやり方はシンプルだ。自民党を離党し、細川政権の樹立から今日まで、手の内のカードはこの二枚を駆使することに尽きる。ある時は『政局カード』を振りかざし、それが手詰まりになると見るや、今度は『理念カード』を切る。この繰り返しである」
健康
もっともな理由として自身の健康問題もあげられる。
初当選直後に甲状腺癌を患い、竹下派会長代行として海部政権の実質的な実力者であった1991年夏に心臓病で入院。
「首相になるならこの時になっていた」と自身でも振り返っているほど。
このようなことが要因となり、小沢はいくつかのチャンスがあったにもかかわらず首相になる機会をことごとく逃し続けてきたことが分かる。
備考
※1 小沢自身は改憲自身には賛成しているものの安倍政権による憲法9条加憲等の改正には反対し、彼と繋がりが深い井上達夫先生の9条削除による改憲は賛成である。
※2 情報源は板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」の『小泉純一郎元首相は小沢一郎政治塾で「脱原発」論を展開、天皇陛下は、西日本豪雨災害の被災地に「MSA資金」から2京円分配を決定された』
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