曖昧さ回避
日本において「民主党」という名前の政党は複数存在する。ここでは「民主党」そのもの以外の「民主」と名のついた政党は割愛する(自由民主、民主自由、社会民主、等)
- 日本民主黨( ( old )Japan Democratic Party ) 1947(昭和22)年に、日本進歩党と日本自由党を離党した芦田均らで結党した中道保守政党。与党日本社会党と国民協同党などと連立政権に参加。社会党政権が崩壊した後は芦田が総理となったが7カ月で総辞職。1950(昭和25)年に連立派と野党派に分裂し解党。連立派は民主自由党に加わり新しい自由党を、野党派は国民協同党と合同して国民民主党を結党した。
- 日本民主党( Japan Democratic Party )1954(昭和29)年に自由党を離党した鳩山一郎らと改進党、日本自由党が与党自由党に対決するために結党した保守政党。総裁は鳩山。党綱は日本国憲法の改正・再軍備など右派色が強いものであった。1955(昭和30)年に自由党と合同(保守合同)し、自由民主党へ発展解消した。
1996年に結成された民主党の流れを汲む政党、当項目で解説する
下記の政党は法規上同一政党
- 民主党(1996-1998) 1996年に新党さきがけ、日本社会党(社会民主党)の大多数の議員により結党された政党。
- 民主党(1998-2016) 1998年に民主党(1996-1998)を主体として旧新進党系政党と、2003年に自由党と合併した政党。
- 民進党 2016年に民主党(1998-2016)と維新の党が合併して結党した政党。
- 国民民主党(2018-2020) 2018年に民進党と希望の党が合併して結党した政党。2020年に解散。
2017年衆院選で民進党の分裂により誕生した政党で法規上は別政党
- 立憲民主党(2017-2020) 希望の党の公認を得られなかったか、政策に同意できなかったものが結党し、選挙の結果野党第一党となったリベラル政党。2020年に国民民主党(2018-2020)と合併し解散。
- 希望の党(2017-2018) 当初民進党の大部分の議員が合流する予定だった政党。排除の論理等により支持が急落し党勢が低迷、2018年に民進党と合併し国民民主党に移行。
沿革
民主党(1996-1998)
結党時のマーク
1994年に政治改革関連法が成立し、次回総選挙以降に従来の中選挙区制から小選挙区比例代表並立制が導入されることが決定した。このため、当時の与党である日本社会党(96年より社会民主党)、新党さきがけ、自由民主党と日本共産党を除く民社党、自由改革連合、新生党、公明新党、日本新党が合同し新進党を結成。小沢一郎が提唱した保守二大政党制が実現しようとしている中、小生等は埋没の危機に瀕していた。選挙制度上、少数政党では不利になることを恐れた新党さきがけの鳩山由紀夫らは日本社会党との「社さ新党」、あるいは新進党の船田元との「鳩船新党」を模索していた。協議の結果、薬害エイズ問題で世論の支持を集めたさきがけの菅直人らと接触を重ね新党結成で合意。鳩山の実弟である新進党の鳩山邦夫、菅直人、社会党の岡崎トミ子ら4人が「民主党設立準備会」結成の呼びかけ人となった。
当初は社さ全体での新党移行を想定しており、実際社会民主党は党全体で民主党に合流することを決議していた。しかし、自社さ連立政権に参加した中心人物らの参加を拒否した(いわゆる排除の論理)。このため、さきがけと社民党が分裂する形での結党となった。
9月28日に結成大会を開催。鳩山由紀夫と菅直人が共同代表に就任するという異例の形で船出をしたのは双方の支持グループの顔を立てた妥協の産物でもあった。内実は社民党から35人、社会党系政党市民リーグから5人、さきがけから15人、新進党から1人が参加。計57人で結党した。正式な結党日は届け出がなされた1996年9月29日である(以降、民主党、民進党、国民民主党も法規上はこの日が結党日となる)。一ヶ月後の総選挙では公示前勢力を維持した。
新党に移行しなかったさきがけ、社民両党は1996年衆院選で惨敗したため、事実上の社さ新党となった。また、日本社会党の流れを汲むことで戦前の無産政党系政党の系譜にも繋がる事になる。党内は社民党出身者が多かったがベテランが中心であり、等の運営はさきがけ出身議員を中心に社民党出身中堅、若手議員が担った。
このように排除の論理のしこりが残った上に、菅直人が第一次橋本内閣に参加していた関係上与党との協力姿勢を出すなど野党としての立ち位置が不明瞭だったため、「与党でも野党でもない、ゆ党」と称されるなど船出は順風満帆では無かった。野党内でも新進党に次ぐ第三党であり、存在感が当初はあまり無い状態だった。
翌97年に新進党が分裂、漁夫の利を得る形で野党第一党となる。新進党系政党の一部と統一会派を組み、翌年に新党「民主党」に移行した。
当時のキャッチコピーは「市民が主役の民主党」。
民主党(1998-2016)
概要
旧民主党に新進党が分党して出来た民政党・新党友愛・民主改革連合が1998年1月に結成した院内会派「民主友愛太陽国民連合」を母体に1998年4月27日に結党した政党。党名及び法規上は同一政党だが、一旦全員が離党し改めて入党したりロゴや綱領、機関紙等もすべて一新されたため別政党とみなされる。また、結党時に保守中道を掲げる旧社会党系の議員と中道左派を掲げる旧民主党系議員が対立し、基本理念を「民主中道」とすることで落ち着いた。左右を包括する包括政党を掲げたものの、対外的には中道左派と見られることが多かった。
小選挙区比例代表制導入後に結党されたため、この政党のグループ分けは常に流動的であり、自民党の派閥ほど強固な集団が存在しない。基本的には旧民社党系の右派と社会党系の左派の考えを持つ議員が旧社会党以来再び共存することになった。更に、2003年に小沢一郎率いる自由党と合併した「民由合併」以降は自民党右派・左派の考えを持つ議員も合流した結果、党内には保守から革新まで幅広い政治思想を持つ議員が所属する状態となった。民主党内の勢力を明確に分けることは困難である。「幅広い勢力が結集」「党内民主主義が保証されている」ということは同時に分裂の可能性も秘めていた。
2000年代においては自民党が年金問題など「政治とカネ」でつまずき続け、また当時の公共事業批判も追い風となり(風向きが変わるのは東日本大震災後)、郵政選挙で一時敗北するも順調に勢力を拡大。2009年に政権交代を果たした。
しかし所属議員が執行部を公然と批判するような行為が許容された結果、「言いたい放題」「船頭多くして船山に登る」という状態になり、造反や大量離党等の事態を招いた。この党内対立は後継の民進党でますます激化し、2017年から2018年にかけて立憲民主党と国民民主党に分裂する根本的な要因となった。
民主党のマーク
民主党のイメージソング
民主党( Democratic Party of Japan )
前述の旧民主党と法人上は同一団体である。
この政党は自民党に変わる政権政党をめざし、官僚政治から政治主導への転換を訴え、多数の政党が合流し結成された。この政党の党首は『代表』。党運営の責任者は『幹事長』である。
民主党は小沢軍団率いる自由党と合同し、小沢一郎議員が党代表に選出。小沢は低迷していた自民福田康夫内閣との大連立政権を狙っていたものの、所属議員が目的自体を理解できなかったことと小沢独断の行為に党内から批判が噴出し、大連立は頓挫した。
その後鳩山由紀夫代表の2009年衆議院総選挙で自民党に圧勝し、政権交代が実現した。
【与党時代】
【歴代政権2009~2012】
鳩山内閣(友愛内閣)
民主党が300議席以上を獲得するという衆院選圧勝により、民主党代表だった鳩山由紀夫が内閣を組閣し、民主党・国民新党・社民党の3党による連立政権(これは、当時の参議院において民主党は第1党ではあったものの、単独過半数を占めるには至っていなかったためである)が誕生。国家戦略室や事業仕分けなどの「政治主導」を印象付ける政策を推進した。
ところが、民主党幹事長であった小沢一郎の党運営をめぐり親小沢・反小沢で民主党内に亀裂が生まれ、党内は混乱する。
さらに、鳩山首相が解決に意欲を示していた普天間基地移設問題では、鳩山の発言後退により事態は迷走。結局、基地の県外移設を断念すると共に、かねてより計画されていた辺野古移転に落ち着き、沖縄県民を落胆させた。加えて、この件では県外移設方針を掲げる社民党が反発し、政権を離脱。
これらの責任を取る形で、小沢一郎に幹事長職を辞任させることを条件として鳩山は総理辞任を宣言。わずか8ヶ月で鳩山政権は崩壊した。
菅内閣( 奇兵隊内閣 )
鳩山由紀夫の総理辞職後、反小沢を掲げた菅直人が党代表に選出され、総理大臣に就任。前内閣の顛末から、国民に対する民主党への眼差しが厳しくなり始めていた矢先、この政権も問題が山積した。
就任から1ヵ月後、参議院選挙を迎えたが、ここで与党は議席を減らしてしまった。民主党はかろうじて第1党を保ったものの、自民党を始めとした野党が過半数を占め、ねじれ状態が生じた。
就任から3ヶ月後、尖閣諸島中国漁船衝突事件が発生。政権は、内閣官房長官であった仙谷由人を中心として事件を隠蔽しようとしたものの、現場からのリークで世間に知れ渡る結果となった。このような隠蔽の試みに加え、衝突してきた漁船の船長を中国の要求通りに釈放したため、国民や野党から「弱腰外交だ」として強く批判された。
また、就任半年目には東日本大震災に見舞われ、同時に生じた福島第一原子力発電所のメルトダウン等の後始末に追われることとなった。ここでも、数々の対応の不備が国内外で批判された。
外交面では鳩山政権で亀裂が生まれたアメリカ当局との関係を再構築しようと努め、従来の自民党寄り路線に回帰。
また、TPP交渉参加の表明、日本版NSC構想などを打ち出すものの、大連立の検討など迷走し、マニフェストでは否定していた消費税増税に含みを持たせたまま、菅政権は1年5ヵ月で終結した。
野田内閣( どじょう内閣 )
菅直人の辞職後、党代表に選出された野田佳彦は民主党内の混乱を切り抜けるべく『ノーサイド決断路線』を宣言し、その後決断増税路線へ舵を切った。
しかし衆院選のマニフェストには、「四年間は民主党政権では税金は上げない」と明記しており、これは明らかにマニフェスト違反と言えるものであった(とは言え、このこと以外でも、民主党政権は公約に掲げた数々の政策をまともに実行に移せていなかったが)。
これに対し、鳩山由紀夫グループや小沢一郎グループの反発を生み、小沢一郎元幹事長と陣営の議員の一部は民主党を離党。7月11日に小沢一郎を代表として政党国民の生活が第一を結成、11月に日本未来の党となった。さらに日本維新の会などの第三局などに移籍する動きが相次いだ。
2012年11月14日の党首討論において、野党であった自民党安倍晋三総裁と野田首相( 兼民主党代表 )との間で激論が交わされた。議論の末、野田首相は12月16日に解散をすると明言した。
宣言通り12月16日に行われた衆議院選挙において、政権担当時の数々の失策と多数の離反者が出た事で野田民主党は安倍自民党・公明党に敗北(ちなみに民主党から離党した議員が所属した政党、例を挙げれば日本未来の党なども壊滅的敗北を喫した)。
しかも、現職閣僚19名のうち引退者1名を除く14名の衆院議員が5人しか当選せず、7名が落選(これらの落選者の中には、選挙に非常に強いことで知られる田中眞紀子などの名もある)、1名は離党し当選、1名は連立を組む国民新党より立候補し落選という前代未聞の大敗北であった。ここに民主党政権はわずか3年あまりで終了し、自由民主党と公明党に再び政権を明け渡し、野田内閣は総辞職した。民主党政権最後の総理大臣となった野田氏だが、その在任期間は1年6ヶ月と、前任の2つの内閣よりもかろうじて長かった。
再び野党時代
海江田民主党
参議院選挙およびそれに続く衆院選( 第46回衆議院議員総選挙 )に大敗北した後収拾がつかぬまま党代表選を決行、海江田万里が党代表に選出された。
海江田代表は「聴く・歩くプロジェクト」を実行し民主党の信頼と立て直しを同時に行うことになった。民主党内では前幹事長の細野豪志議員がみんなの党・日本維新の会と新党を結成するのではないかという警戒などがあり、自民・公明との三党合意などでの会議でも存在感を示すことはできなかった。
民主党は与党時代には党内の内輪もめに終始し、自民党との明確な違いを打ち出す事もできなかったものの、特定秘密保護法や日本版NSCなどの問題に関しては政府・自民案に対案を出すなど、以前よりも政党として存在感をアピールしていた。
ところが、以前より政権に批判的な姿勢を貫き、独自の代案を示してきた日本共産党と、自民寄りの姿勢を強め責任野党化した維新の会・みんなの党に挟まれ、民主党は野党第一党の存在感を示せているとは言えず、第二次安倍政権に歯止めをかけられずにいる。
その後2014年12月14日に行われた第47回衆議院議員総選挙では前回の半数以下しか候補を立てられなかったものの当選者数こそ増加した。しかし有力議員の苦戦・落選が相次ぎ海江田代表自らも比例復活すらならず落選、海江田は翌日党首辞任を表明した。
第二次岡田民主党
海江田の辞任に伴い、2015年1月に代表選が行われ岡田克也・細野豪志・長妻昭の3名が立候補し1月18日に投票が行われた。長妻は一般党員からの票が伸びず脱落、岡田と細野が決選投票で争い岡田が2度目の代表となった。
野党再編と「民主党」の終わり
2016年に野党結集を進める考えから民主党は維新の党との合併を決定。民主党と維新の党の双方の解党も検討されたが、民主党を存続法人として維新の党を解党し、民主党が改名をするという形がとられた。
1996年の結党後1998年まで続いた同一法人格の旧民主党時代から1998年以降の現在の民主党に至るまで続いた「民主党」という党名は消滅。
民主党とは同一法人として「民進党」が結党され、20年程の「民主党」は幕を閉じることとなった。
民進党
民進党結党大会 2016年3月27日
2016年の結党後の動向
民進党(みんしんとう)とは、2016年3月27日に岡田克也率いる民主党と、松野頼久率いる維新の党が合併して結党した政党。民主党とは同一法人であるが、新党であるとしている。これは比例代表制で選出された議員は選出された選挙区で候補を立てていた他の政党に選挙後移動することは許されていないための措置である。
民主党の下野以降、民主党の支持率は急降下し、議席も大幅に減少。国政における民主党の影響力は著しく低下した。民主党はこの状況に対して「野党結集」を掲げ、他の政党との協力を模索、その過程で維新の党との合併が協議され、2016年3月に正式に合併した。しかし同月に共同通信社が行った世論調査によると、「民進党に期待しない」との回答は67.8%で、「期待する」の26.1%をはるかに上回る結果となり、国民の厳しい視線に晒されていることが窺える。
初代代表は民主党の代表であった岡田克也がそのまま引き継ぐこととなった。2016年9月の代表選挙によって蓮舫が2代目代表に就任。
2017年の衆院選前後に関する一連の騒動
2代目代表の蓮舫が2017年に辞任を発表し、同年9月に再び代表選挙が行われることになった。前原誠司が枝野幸男との代表戦を制し3代目代表となった。
前後して東京都知事の小池百合子が率いる地域政党「都民ファーストの会」が国政進出、新党の「希望の党」を結成することになり、新党に参加するために細野豪志をはじめとした離党者が多数発生。その後9月中に衆議院が解散になったことから、10月の総選挙に関しては民進党からは公認候補を出さず、民進党からの立候補予定者は希望の党に公認申請し、同党から立候補することを認める方針を固めた。代表の前原、参議院議員及び地方議員は選挙後まで民進党に残るものの、事実上民進党の解党となる決定であった。
しかし「希望の党」が民進の立候補予定者の公認に関して無条件での受け入れではなく選別の方針を示したことなどに対し、選挙に強いとされる前議員を中心に無所属での立候補の動きが生じた。加えて、実際希望の公認を得られなかった者も現れると枝野幸男らリベラル系のメンバーは新たに「立憲民主党」を結党、その後岡田ら無所属で出馬するメンバーも緩いグループを形成するに至った。
野党再編に伴う合併、「国民民主党」へ
2018年に入ると、民進党と希望の党の両執行部が、合流した上での新党結成を模索する動きが加速。両院議員総会で了承のうえ5月中に新党の「国民民主党」を立ち上げることになった。
しかし民進党籍を残したままの無所属の衆議院議員(岡田克也、野田佳彦など)からは合流に反発する声もあり、「国民民主党」への参加は一部にとどまった。新党に参加しない議員は離党届を提出し、了承された。
国民民主党(2018-2020)
民進党と旧・希望の党が、野党再編を模索する過程で新党を結成することに合意。2018年5月に旧・希望の党が分党し一部議員が合流する形で新たに立ち上げた。民進党を党名変更した形だったため、法規上は民進党と同一政党である。略称は「国民党」或いは民民。
しかし、民進党系議員からはもそれに参加するなら枝野幸男率いる立憲民主党との連携や、無所属で行動した方が良いという意見があり、民進党系議員の一部は新党への不参加を表明。結党参加議員は60名となった。
発足当初の共同代表は民進党と旧・希望の党でそれぞれ代表を務めていた大塚耕平と玉木雄一郎の2人。
支持率は低いものの、希望の党よりは比例以外の当選率が上がった。
与野党の対立姿勢を深めていく立憲民主党・日本共産党に大同せず自民党と積極的に協議を行って一定の回答を引き出すなど、政策提案型野党として独自路線を歩んだ。しかし、せっかく提案が与党に受け入れられても有権者に自身の成果として認識されず支持率が上がらないという(連立政権ではないので当たり前ではあるが)結果となっている。
因電力労連から金を受け取っている影響からか原発に関しては再稼働容認派である他、維新の会を除く他の野党と異なり自民に屈する時もある。
しかし2019年(平成31年)1月23日、自由党と合流話が出てきて、それから統一会派を組むことで方針を転換。森裕子や山本太郎などと同様、小沢自由党代表の同調し政界再編や野党共闘を訴え、2019年(平成31年)4月26日に正式に自由党と合併合流し『れいわ新選組』を立ち上げた山本太郎を除くすべての議員が国民民主党と合流が決まった。
尚、この時に合併に反対したのは4名である。
2019年(令和元年)7月21日の参議院議員選挙には、立憲民主党・日本共産党が呼びかける野党共闘に応じ選挙戦を展開したが、その結果は改選議席が約半減し日本維新の会にも4議席の差をつけられて惨敗。しかし改憲に必要な議席数2/3を自民・公明・維新で確保できなかったため、一時は自民党から大連立を提案されるなど政界のキャスティングボードを握った。しかし、衆議院と同じく立憲民主党と統一会派を組んだためこの大連立構想は立ち消えとなった。
上記の参議院選挙の結果を受けて、2019年10月末から立憲民主党との合流の検討が始まったが、双方の認識の違いなどから一旦破談となった。しかし、2020年に立憲民主党側が譲歩する形で再度合流が検討された。この際、合流新党に改革中道などの文言が盛り込まれなかったことや原発ゼロ政策に難色を示した支持労組側との対立が鮮明化し、結果9月8日に分党が決定。立憲民主党との合流推進派は暫定政党「民主党」(新党結成直前の14日に解党)と合流不参加組の新「国民民主党」に分かれることとなった。ちなみに、この解党によって国民民主党としての2年余りの歴史のみならず、法規上1996年の民主党から続いた24年弱の政党の歴史に幕を下ろすこととなった。
その後
以上のように2010年代の下野後の民主党→民進党は長く混乱が続くこととなったが、2020年代に入ってからは旧民主系かつ中道左派の新・立憲民主と旧民主系かつ中道右派の新・国民民主に二分される形で落ち着いている状態となっている。
結果的には左派の社会党と右派寄りの民社党が並立していた旧55年体制時代に近いような勢力図になったとも見ることができる。もっとも、関西で地盤を作り上げることに成功して勢力を保っている日本維新の会の存在など、当時とは異なる要素もあるにはあるが。
旧民主系の最大勢力となった立民は2020年頃には左派傾向がかなり強かったものの、近年は中道右派とされる泉健太→野田佳彦を代表に選出するなど若干の路線修正を図っているという状況。野党第一党としての地位は安定しつつあるものの、政権交代の見通しという面では依然として難しいとされており、かつての社会党のような万年野党に甘んずるのか、それとも政権交代を再び実現することがあるのかは2020年代半ばの現時点では未だ不明瞭である。
国民は政策実現を最優先することを標榜して独自路線を歩んでおり、組織の小ささから一時期は苦戦したものの2024年衆院選にて28議席を獲得するなど一定の影響力を得ている。
両党のさらなる詳細については各項目を参照。
ネット上の評判
ネット上においてはこの党そのものの評判はすこぶる悪かった。全共闘世代の代弁者、日教組・社会党的ポリコレ政党と受け取られ、若者・オタク世代が中心のインターネットでは評判がたいへん悪く、2000年代後半頃には表現規制反対などで日本共産党のほうが評価が良いこともあった。(ただしその共産党も2010年代以降は明確に表現規制やジェンダー平等といったポリコレ思想を推進していった為、2020年代現在はネット上でも批判が非常に多くなっている。)
何かにつけて右往左往の行き当たりばったり、右派と左派双方の悪いとこ取りを体現したかのような政党といわれ、党として積極的に支持する声は少なかった。
ただし、個別の議員に関しては支持する声も少なからずあった。特に旧民社党系や小沢一郎には熱烈な支持者がいた。
ネット右翼からは、反日政党だとして目の敵にされており、ミンス党(朝鮮語のような語感・イメージで付けられたもの)と罵倒される事もあった。しかし、韓国語での民主党の読み方はミンジュダン(민주당)であり、決してミンスではない。
pixivでも状況は同じで、自民党では批判的な風刺画と応援イラストが双方投稿されているが、民主党は風刺画が大半という状況である。
関連タグ
自民党 公明党 日本共産党 日本未来の党 日本維新の会 みんなの党
外部リンク
【参考文献・引用】
民主党(web)