松本龍
まつもとりゅう
1951年生、福岡市出身。実家は福岡の土建業および土地利権に大きな影響を持つゼネコン
「松本組」であり弟がその社長を務める。
養祖父は「部落解放の父」と呼ばれた部落解放同盟の大御所的存在松本治一郎。父は元参議院議員の松本英一。
英一は優秀であった次男に国会議員の後を継がせようと考えていたが、1972年10月1日、当時大学1年生であった次男が銀座の路上で心不全を起こして急死したため、長男である龍が父の後を継ぐことになった。
大学卒業後は実家の松本組に入社し、父の補佐、不動産の管理、営業などを担当していた傍ら、1980年、父の秘書として政治の現場に入る。
1990年に日本社会党(後の社民党)から立候補して当選、政治家デビューを果たすも1996年に社民党を離党し民主党に参加。国鉄労働組合のJR採用差別闘争に連帯している。
いわば部落解放同盟、地方大手ゼネコンのプリンスともいえる存在で、そのバックから選挙では鉄板の強さを誇っていた。
初入閣・閣僚として
2010年9月17日、菅第1次改造内閣において環境大臣兼内閣府特命担当大臣(防災担当)に就任し、初入閣を果たした。
同年10月に行われた第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)の議長を務め、議長案採択にこぎつけた。
しかし以前から元々放言癖で問題になったことが度々あり、東日本大震災の対応に
当たっていた最中の2011年7月、面会した岩手県知事達増拓也と宮城県知事村井嘉浩に対して数々の暴言を吐いたことが問題となり大臣辞任に追い込まれた。
さらに2012年12月の衆議院選挙では民主党の失策からの逆風に加え長い不景気から地元福岡の土建業者の離反を招き、さらに自民党の中でも松本家と共存路線をとってきた元自民党幹事長の山崎拓らが引退、これを機に福岡の切り崩しを図る麻生太郎が元県議の井上貴大を対抗馬として投入し自らも積極的な支援に乗り出し、まさに仁義なき戦いの選挙戦のあげく、松本は鉄壁だった地盤を失い落選し、2014年10月に次の選挙に出ないことを表明したものの、事務所はそのまま残し完全引退かは微妙な状態であった。
高校時代は新聞部長を務め、「とにかく時間にうるさいことで有名だった」といわれる。生徒会長選挙にも立候補したが、西田藤二(元福岡市議)に敗れた。松本をよく知る人は「おとなしい、いい人です」「あんなしゃべり方初めて聞いた」と話しており、宮城県知事に対する暴言は菅首相を退陣へ追い込むためにわざと発言したのではないかと報じているメディアもある一方、高校時代の同級生は「今回の発言は別に驚かないです。昔から松本龍は松本龍。高校時代から、あんな感じでしたよ」とも発言している。
工藤會の総裁を務めていた野村悟は妻の姉の夫で義理の兄弟の関係に当たる。
辞任時の会見でフィービ・スノウの歌詞を引用したり、事務所に多数のCDコレクションが陳列されていたりと強面の外見に似合わずファンクやソウルなどのブラック・ミュージックの愛好家だった模様。