「赤い官房長官」
生い立ち~弁護士時代
徳島県で裁判所職員の父、教員で組合活動家の母のもとにうまれ東京大学に入学。大学の同期には元・自由民主党総裁の谷垣禎一などがいた。
大学時代は学生運動盛んな頃であり、彼も全共闘の新左翼系学生運動家として活動した。東大安田講堂事件の際は講堂の中にはおらず、救援対策や弁当の差し入れなどを行い、学生活動家仲間からは「弁当運び」と呼ばれていた。
1968年に司法試験に合格し、東大を中退して弁護士となり、弁護士時代は労組関係の事件等を手がけた。所属していた弁護士事務所の部下に福島瑞穂らがいる。
政界入り
平成2年、日本社会党より初当選。鳩山由紀夫内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新担当→「新しい公共」担当)を務める。
政策としては親中国・韓国のスタンスをとり、尖閣諸島中国漁船衝突事件では船長の釈放の圧力をかけたとも言われておりsengoku38の騒動でも皮肉られている。
その一方で1999年7月、衆院本会議で国旗及び国歌に関する法律に賛成票を投じた。
官房長官として
菅内閣において内閣官房長官(平成22年6月~23年1月)。また一時期は法務大臣も兼任した(当初法務大臣だった柳田稔が失言で辞任したための措置である)。
2010年6月8日発足の菅直人内閣では横滑りで内閣官房長官に就任。「影の総理」、「赤い後藤田」と呼ばれるほどの政界実力者として注目されるようになった。
通常は5人程度の官房長官秘書官を10人抱えたこと、10月14日の横浜で行われたアジア太平洋経済協力会議での日韓首脳会談に首相と共に陪席したことなどが異例だと報じられた。
落選・政界引退以降
2012年12月の衆議院選挙で民主党政権への批判や上記の尖閣諸島問題などの対応で支持が急落、比例復活もできず落選した。その後は政治活動は行っていたものの2014年の衆議院選挙には「若く将来性のある者を出すべき」として不出馬を表明。今後の再出馬についても含みを残しており、正式な引退宣言はしないままだったがその後表舞台に出ることは減っていた。
2018年10月11日、肺がんのため自宅で逝去。享年72歳。