概要
英スペルは「political correctness」。
社会における特定の人物やグループに不快感や不利益をもたらさないようにする活動(政策など)のことで、主に人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まないとされる、中立的な表現や用語を用いる行為を指す。日本語では「政治的正しさ(妥当性)」と訳される。
呼称としては短縮して「ポリコレ」「PC」などと呼ばれるのが一般的である。本記事では基本的には「PC」で呼称を統一する。
類似の表現に「woke」がある。これは「差別や偏見など社会で起こっている問題に対して高い意識を持つ」というような意味合いである。
1900年代に入ってからアメリカを中心に政治的活動の中で散発的に使われるようになり、1970年代〜1980年代にかけて少しずつ広まったと考えられている。現代日本では主に娯楽作品などの表現活動におけるものを指す。
何が「政治的」か、何が「正しい」かを示す明確な定義がないため、全ての人が確実に「ポリティカル・コレクトネス」と認識できる物事はないと言えるが、2020年代における「ポリティカル・コレクトネス」とは、女性(フェミニズム)やLGBT、宗教的少数派、(その国や地域における)少数民族などのマイノリティ(≒社会的弱者)への配慮を支持する思想を持つ者達による、(表現の)多様性、尊重を求める活動を指す場面が多い。
日本においてPCによって表現や用語が変更された例としては、女性限定の職業という意味で使われていた「保母」、「看護婦」が、男女雇用機会均等法により男性の従事者・有資格者の割合が増えたことにより「保育士」、「看護師」へ変更されたことや、絵具等の「肌色」が、人種や体質などそれぞれの人が生まれ持った本来の肌の色に対する差別を防ぐため「うすだいだい、ペールオレンジ」に呼びかえられるようになったことなどが挙げられ、いずれも特定の(また社会的に弱い)立場にある人への配慮をしたうえで、実態を反映した表現の一つと言える。
もともとは人種や性別といった分野を限定しない形で「特定の物事に取り組む際に使用する適切な言葉や立場」というような意味合いであり、また政治的立場の左右を問わず用いられていた。
PCが広まり対象となる分野が増えた1990年代ごろには「配慮が求められるものごと」という意味だけでなく、一部の保守派からは「保守的でないもの、保守派の立場やコミュニティを脅かすもの」というような位置づけもなされるようになり、保守派からみた(人権啓発などの)革新派による活動を、ひいては自分たちが考える「正しさ」を侵害する活動を批判的に指す方向に変容し、「PC」が「自分が受け入れられない表現」に対するレッテル貼りとして使われる場面が多くなった。
一方でPCを訴える側にも「配慮・保護されるべきカテゴリ」を限定したうえで「自分たちは『正しい』のでどんな主張も受け入れられる必要がある」と、PCを盾に激しい(政治)活動を行う、その者が考える「正しくなさ」、つまり配慮・保護されるべきではないと定義するカテゴリを差別・弾圧する過激な活動家や組織が存在しており、これによりPCという言葉そのものに忌避感を示す、PCを求める活動をしている人やPCに基づく表現を支持する人を非難する人も少なからずいる。
例えば、映画やドラマなどのエンターテイメントにおいては、PCの観点で作られた表現上のガイドラインが加わることにより、それまで取り上げられにくかった、あるいは取り上げてもステレオタイプな表現で正確性と配慮に欠ける内容になっていたような題材を扱いやすくなる、また配慮と保護の当事者であるすべてのスタッフおよび観賞者に対する敬意を払った制作が行いやすくなるといった利点がある。
しかし、PCそのものに明確な定義がない以上、あくまでPCを行う側(先述の例では「ガイドライン」を作る側)の感覚や思想に由来するために、マジョリティ差別となる逆差別や被差別者による他の被差別者への糾弾・差別を引き起こす要因になりかねず、むしろ中立性がなくなる可能性が高まる。「民族を平等に扱う」という観点からPC的ガイドラインを導入した結果、「配慮されるべき」差別を受けていた民族出身の俳優を主役として大々的に取り扱い尊重する一方で、マジョリティとなる民族出身の俳優やスタッフは「配慮されなくてもよい」ので蔑ろにされるという矛盾が起こり得るのである。
また、十分な配慮を行ったつもりでも、その配慮のあり方が偏っていたり、作品の本題とは別に社会的なテーマが打ち出されていたりする(ように見える)と、観賞者からの「単なるえこひいき」「作者の思想が表れすぎている」といった批判に晒されることすらある。
むろん、現状のPCの指すところは「中立的な立場による適切な表現や取り扱い」のため、どちらかを持ち上げるためにどちらかを下げるというのはPCの本義に反するといえ、特に多様性を重視する場面では「何をどのように扱うか」のバランス感覚は(特にマジョリティとマイノリティの対立関係などを描く場合は)繊細さが求められる。
また、先に述べたようにPCに基づく表現活動や、既存の作品や活動者に向けてのPCを推進する側には「自分たちは『正しい』のでどんな主張も受け入れられる必要がある」と主張する過激派も存在し、さらにPCを行う者同士でコミュニティが形成される事も多く、いわゆるエコーチェンバー現象によって「コミュニティの中でのPC的価値観」が世間の認識からズレたまま作り上げられる危険性がある。中にはPCの名の下に作品制作の会社に干渉しつつ利益を得る企業も存在する。
これらの背景も関連し、「ポリコレ棒」などに代表されるように、PCが「中立性や多様性の間違った解釈による押し付け」という誤解を受けている、「コンプライアンス」のようなものだと認識されるなど、本来の意味から乖離して使われていることも多い。
前歴
アメリカ合衆国にて、古くは1900年代から散発的に使われ、特に1970年代〜1980年代にかけて広く認知されるようになったとされる。
1960年代以前から公民権運動やフェミニズムの活発化の中で、主に革新派の間で使われており、また活動家の間でもある種の皮肉として使われることも少なくなかった。
これらの背景には人種のサラダボウルと称されるアメリカ社会の特殊性もあり、白人優位・男性優位主義からの脱却を目指す活動は、PCの一つの大きな側面である「人種差別の解決」とも関連している。
また、PCの概念が広まるにつれて人種に留まらず、宗教や性別、職業・文化・民族・障害者・年齢・婚姻といった点にまで同様の配慮が求められるようになる。一方、PCを推進する政治団体の影響で、エンターテイメントの世界における(自主的とは言い難い形の)自主規制など表現の自由が侵害されるような事態も発生している。
1990年代以降のアメリカメディアの多くが、PCについて「過激、過剰なもの」「不当なもの」と批判するようになり、さらに保守派の間においてある種のレッテル貼り、中傷の意を含んだ用語として用いられることも増えていく。
SNSの台頭やスマートフォンのような小型機器の普及により、誰もが気軽にインターネットにアクセスして世界中の人と情報共有ができるようになってからはPCの議論がより活発化・先鋭化し、2010年代以降は日本でもPCについて(主に欧米での表現規制などの事例とともに)一般に知られるようになった。
しかし、日本では後述のようにエンターテイメント業界における事例ばかりが認知されている傾向が少なからずあり、また、それらの成功例よりは失敗例について、冷笑的なスタンスでもって取り上げられる機会が目立っている。
なお、日本では2010年代前半からは宗教右派とされる世界平和統一家庭連合(旧統一教会)がPCを推進しているが、これは彼らがいわゆる新興宗教であることから、宗教的マイノリティに対するヘイトスピーチや、朝鮮民族へのヘイトスピーチ防止、更には教義である「環境の浄化」「倫理道徳・家庭教育の再興」にふさわしくない性的コンテンツや、暴力コンテンツ規制を求めているという背景があると考えられる。
世界各国の主要メディアや、クレジットカードなど我々一般市民の生活に欠かせないプラットフォームを提供するような大手企業は、拠点を置く国のマジョリティのみならず、マイノリティや外国人を顧客として持つケースが多く、おおむねPCには肯定的である。
逆説的に(彼らの定義する)PCに対して反抗的な態度を取る、もしくはそうした顧客・従業員の態度を許容するような企業・個人は取引の打ち切りに遭ってしまう事例も見られるようになってきている。
一つの例として、日本のサイトを含む一部アダルトコンテンツ販売・配信サイトで、過剰なまでのNGワードが設定されていたり、ある大手ブランドのカードが使えなくなったりしているのはカード会社の自主規制によるものだと指摘されており、この規制の理由がいわゆるPCと限定することはできないものの、映画・ドラマや一般のコンテンツ配信サイトで行われているPCの観点に基づく規制が、比較的自由度の高かったアダルトサイトにまで関与するようになってきているとも言える。
参考:GIGAZINE『アダルト産業を実質的に規制しているのは政府や国際条約ではなく「クレジットカード会社」だという指摘』
「政治的正しさ」の起源と印象
元々「ポリティカル・コレクトネス」という言葉はブリタニカ百科事典の記事によると、1917年のロシア革命後に成立したマルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義の語彙に登場したものらしい。
そして2016年1月13日に発行されたワシントン・ポストの記事によると1934年のニューヨークタイムズの記事では「All journalists must have a permit to function and such permits are granted only to pure ‘Aryans’ whose opinions are politically correct. Even after that they must watch their step.(すべてのジャーナリストは活動許可証を取得する必要がありますが、そのような許可証は、政治的に正しい意見を持つ純粋な『アーリア人』にのみ付与されます。その後もジャーナリストは行動に注意する必要があります。)」といった具合にナチス・ドイツの弾圧に対する皮肉として「politically correct(政治的に正しい)」という言葉が使われていた。
更にColumbia_Journalism_Reviewの2017年6月12日の記事によると、筆者が授業中に政治的に正しい人が持つ政治観について尋ねたらクラスの全員が「リベラル」と答えたようであり、これらの事からポリコレが左翼的な印象を持っている言葉だという事がうかがえる(左翼と呼ばれる層は「平等」「中立」「リベラル」といった言葉を好む傾向がある)。
「政治的正しさ」という言葉が元々左派的印象を持つものだったからこそ、「政治の話題が語られる場」における「特定の人種に対する差別」を防ぐという「平等」や「中立」の為の動きが強まり始めた頃に使われるようになり、上記の「社会における特定の人物やグループに不快感や不利益をもたらさないようにする活動(政策など)」という意味が定着したと考えられる。
また、欧米においては政治家の言動や大企業の理念・行動(例えば原材料の調達や従業員の扱いなどがSDGsなどを配慮したものか?)などの文字通りの現実における「政治的」なものにこそPCが求められるのに(PCは現実でポリティカル・コレクトネスが求められるのが余りに一般的になった事による副次的なもの)、日本においては90年代に翻訳された「政治的に正しいおとぎ話」によってこの用語が広く知られるようになったのが一因で、特にPC批判派においては「表現物に関する話」「半笑い気味で受け取るべきもの」などの印象が抱かれている傾向がある。
因みに2017年3月6日のThe_American_Scholarの記事によると、「ポリティカル・コレクトネス」が「persistent attempt to suppress the expression of unwelcome beliefs and ideas.(望ましくない信念や考えの表現を抑圧しようとする執拗な試み。)」と定義される事もあるようで、実際にポリコレ的思想を持つ人々は否定意見に対して攻撃的になる傾向が強く、たったの一言に噛みついて「憎しみを煽っているだけだ」と過剰反応した実例もある。
これはポリコレを行う人々が「自分達は正しい事をしている」と考えているからであり、2021年1月21日15時に出たPRESIDENT_Onlineの記事によると、従わない者には「社会悪」というレッテルを貼る事もあるようだ。
そもそも上記でも説明したように何が「政治的」か、何が「正しい」かを示す明確な定義がない為、ポリコレ(PC)というものは「自分達の思想や感覚に基づいた正しさ」でしかなく、「本来こうあるべき」とした定義も「誤解を受けている」との解釈も実際にはないのかもしれない(結局は「当人にとっての正しさ」の下による行為の結果の印象でしかない為)。
主な例
名称の変更
PCにおいて基本的な活動の一つに、不適切とされる名称の除去あるいは変更がある。
例えば、英語においては、かつて職業を指す言葉に「~man」表記が多かったが、女性の同業者が存在する以上不適切であるとして「~person」などに改められるようになった(例:Policeman→Police officer、Spokesman→Spokesperson等々)。他に有名なものではアメリカ先住民の呼称として使われていた「Indian」が挙げられ、現在でもその定義を巡って議論が繰り広げられている。
日本でも「トルコ風呂」が「ソープランド」へ、「母子手帳」が「親子手帳」へと変更されるなどしている。
過剰な名称変更は時に言葉狩りと見なされもするが、「トルコ風呂」のように国際問題に発展しかねないもの(※かつて「大使館」の店名の性風俗店があり、これが電話帳に「トルコ大使館」と記載されていたため、本物の駐日トルコ大使館が抗議を行うなどの事例があった)や、現代的な価値観において差別の意図が含まれる表現については一般社会の理解を得やすく、一定の妥当性を以て評価される。
被害者に偏重し過ぎた不公平
著名人によるハラスメント事件などでは、無論被害者を守るのは当然の行為であり、これは誰もが納得する事案である。
ただし、加害者たる人物の関係者まで及ぶと、極めて複雑な事態に発展する。
加害者の関係者は当然『直接的・間接的を問わず関与の否定』をするが、自らの潔白を主張する余り「絶対にない」等の強い言葉を使用すると「被害者への無配慮な攻撃」と見なされ、事実上の『脅迫』だと糾弾されるケースも起こりつつある。
上記の通り、被害者の意を酌み守るのは当然だが、加害者との関与が疑われる人物の潔白の主張も守られるべきであるにも拘らず、被害者の意見だけを無条件に酌みながら、関与が疑われる人物の意見だけ「この表現では被害者を蔑ろにしている」等と粗を見つけ攻撃するのは、まさしく政治的正しさに反した状況を生んでいる。
また、法治国家内は基本『推定無罪』を基本としているが、電車内の痴漢行為に関しては、ほぼほぼ被害者の証言だけで成立(=事実上の『推定有罪』が横行)している現実もある。
その為、法曹界の中でも「痴漢冤罪の濡れ衣を着せられた場合、本当に潔白ならば駅員に対し『後日話を伺います』等と提案し、そのまま逃げた方が良い(=自分の潔白を晴らす為に、駅員に促されるまま車掌室などに行くのは自首するも同然)」と答えている有識者がいる。
更に、加害者と被害者が裁判になっているケースだと、双方の事情に通じている第三者が「加害者の容疑を晴らす為に証言したい」と声を上げても、被害者並び告発者サイドが「貴方の意見は今回の案件とは別件であり無関係」として封殺する=加害者に対する擁護材料の提出の拒否を行う一方で、被害者並び告発者サイドは『被害者の保護』『情報提供者の保護』を名目に、情報の偏った開示が許される等も罷り通りつつある等々、最早「加害者に関わった人間も同罪である以上、加害者と共に裁かれるのは必然である」との暴論が蔓延し始めている。
娯楽作品におけるPC
近年PCに関連する事例で、日本において最も議論を呼ぶのが、娯楽作品の表現へのPC(に基づくガイドライン・規制)である。
近年のアメコミは主人公や主要メンバーに、女性や黒人を据える作品が増えているが、これは従来のアメコミの主人公が「白人の男性」ばかりであった経緯への批判から来ている。加えて、現在でも有色人種の役を白人が演じる「ホワイトウォッシュ問題」は、有色人種の役者から成功の機会を結果として奪っている(デンゼル・ワシントンのように型通りの役を断り、正当な意味で評価を受けられる有色人種は稀である)との批判は根強く、例えば「物語の舞台によってはその地域の人種構成に近づけた配役を行うべきである」との主張・提案がされるケースがある。
一方、日本の作品の吹き替え版にて、一部の視聴者が「(地域ごとの発音の違いなども関係するが)有色人種のキャラクターは黒人の声優だけが声を当てるべき」と訴えて炎上した作品も存在し、架空の世界にいる架空の人物を現実で表現する上で、妥当性がある主張とは言い難いものも少なからずある。
更には安易に肌の色だけで「このキャラクターは~~人種である」 と勝手に決め付けた挙げ句、実はその人種ではないと判明した途端に「この作品は~~人種を軽視している」とばかりに暴論を吐き散らかすPC論者もいるが、普通に作品を視聴していれば上記の事実は気付くはずである上、そもそも上記のPC論者の言動自体、肌の色だけで人種を決め付ける=低俗そのもののルッキズムと人種差別に支配されている本性の暴露 にも等しく、彼等に政治的な正しさが皆無な実態を浮き彫りにしている(中にはどう見ても黒人に見えないキャラクターを黒人として決め付け、黒人ではないと判明した途端に激怒したPC論者もいる)。
アメリカにおいては「PCがアメコミの売上に悪い影響を及ぼしている」との意見もあるが、購読者数が落ちているにもかかわらず、読売新聞1社でアメリカの三大紙の発行部数を上回るほど活字文化が盛んで、幅広い世代に読まれるのが当然の日本の漫画と、「漫画は子供と一部のマニアの読み物」とする認識が根強い社会で読まれているアメコミを単純に比較は難しい(また、アメリカにおいて「アメコミ」と日本の「マンガ」、韓国や中国で盛んな「ウェブトゥーン」などはそれぞれ別物と捉えられており、読者層が異なる点も比較し難い要因である)。
既存の作品のリメイク・リブートの際に、現代的な感覚や法律、常識に合わせて内容を改変した結果、旧来のファンとの衝突事件が起きる事態もある。
映画『Rub and Tug』では『実写映画の配役に当たってトランスジェンダー役を「実際のトランスジェンダーの役者が演じるべき」と個人や団体が抗議する』反対が起こった(演じる予定だったスカーレット・ヨハンソンは後に降板を表明した)が、この際にも反対を口にした当事者への攻撃が起こっている。こちらはトランスジェンダーの俳優は他に仕事がふられる事態とそもそもの絶対数が、シスジェンダーの役者より少ない状況が背景にある。
日本では、主に古い作品の中の再放送・再販等で「めくら」「かたわ」等の表現が放送禁止用語として「ピー音」で伏せられたり、別の言葉に差し替えられたりすることがある。しかし、制作側もおそらくは「できる限りそのままの形で届けたい」と考えており、また発表された当時のリアリティを追求する立場や、過去作を純粋に楽しみたいファンから反発を受ける可能性が高いため、作品の最初に「当時の表現や時代背景を尊重しそのままお伝えすることにしました」とする断りを入れた上で、差し替えをせずに発表する例も少なくない。この断りは「見る人への配慮」の1つのあり方、PCの一種とも解釈できる。
外国で作られた作品を放送したり、あるいはリメイクしたりする際も、性別や人種などの設定を変更するケースがよくある。特撮作品では、日本のスーパー戦隊シリーズを元にアメリカでリブート・編集されたパワーレンジャーシリーズでは、一部の作品で男性キャラが女性キャラになっていたり、兄弟や親子などの設定が追加/削除されていたりするが、これは「その国の視聴者に配慮した表現」の意味でPC的である。
尚、創作におけるPCの介入によって問題視されているのは作品そのものの構成上は必要の無い、役者や設定変更ありきの不自然な改編であり、シナリオ構成や俳優の演技力、(スピンオフや新シリーズなど)舞台そのものの違い等の合理的な理由が明示されていて尚も、旧作からの設定変更そのものや、白人・男性以外の主役は全て「PCによる悪質な改変」と見なすのは本質的に間違っている。
新作ゲーム、アニメに対する批判
近年では新作ゲームやアニメに、美男美女ではない人物、被差別人種(に類似した容姿の人物)、性的少数者等のキャラクターがいると「PCに屈した」などとの批判を受ける例がある。
もともとこうしたキャラクター造形は、PC流行以前から珍しくはなかったものであるが、『TheLastofUsPart2』の炎上や、『HorizonZeroDawn』で行われた初期デザイン、実在するモデルの顔造形の修正などが話題になり、更にそうした作品の展開に伴って「ゲームに美人を出すのが自体が悪」との趣旨の主張まで行われた結果、界隈に「もはや美形のキャラクターをゲームで扱えなくなるのではないか?」とする警戒感が生じたため、一部が敏感に反応している状況である。
一連のポリティカル・コレクトネスに配慮し過ぎた結果、従来の表現が不可能に陥るケースも散見されるようになった。
顕著な実例はダークエルフで、今までは『褐色肌のエルフ』だったが「有色人種差別を助長する」との声を考慮してからは、褐色肌から青肌に変更されるケースもあれば、オーガやオークと大差ないモンスターにされるケースもある。前者ならまだしも、後者になると「最早ダークエルフと判別し難い上、こうまでするならダークエルフ自体を使うべきではない」との意見もあり、事実上の表現の規制にもなりつつある。
また、身障者への配慮が過度になり過ぎた結果、体の異形や欠損を連想させる風貌のキャラクターは例え神話由来の超越存在、民間伝承の妖怪や妖精、果ては現実世界に存在しない亜人種であっても、ほぼ例外なく五体満足に表現されるケースもあり(日本の作品ではTVアニメ版の『悪魔くん』のサシペレレなどが該当)、結果的に史実の否定や原作レイプを生んでいる側面も秘めている。
近年では更に顔や皮膚の色だけでなく、肌の露出をも過度に規制する傾向も多く見られるようになった。
他にも、海外向けに配信されていた日本のアニメについて、一部のローカライザーによって、意図的に原作の台詞を政治メッセージに変えるというケースが存在する。
配給会社によって厳密な審査を通過している翻訳がほとんどではあるものの、ファンメイドのものや、正式な翻訳・吹き替え版が出回っていない言語においては、訳者の私的な主張・思想があたかも原作と同じかのように表現され、出回っている作品がいくつか確認されている。
PC推進を巡る問題
「何が政治的に正しいか」はそれこそ多種多様な意見が存在し、全員が納得いく形での実現は難しい。この為、PCの観点に則り配慮したつもりでも別の方面でおざなりになってしまったり、あるいは新たな問題を起こし論争と炎上を招くケースも少なくない。
例えば、ディズニーが製作したアニメーション版で白人(を思わせる容姿)だったアリエル(実写映画版)・ベル(ブロードウェイ版)・白雪姫(実写映画版)等に有色人種のキャストが起用されたという事例は物議をかもしており、そもそも「人魚」であるアリエルはまだしも、白雪姫は「雪のように白い肌」が名前の由来である為に、原作を忠実に再現するには必然的に白人、またその中でも限られた人間しか演じることができないはずである。
一方、実写版『リトル・マーメイド』は舞台がカリブ海もしくは地中海となっており、有色人種が演じても違和感がない設定になっている。『白雪姫』も「雪のように肌が白いから」という部分が別の表現になるなど、先に述べたように変更にあたっての合理的な理由がきちんと説明される可能性は高い。
過去の発言を掘り起こして現在のPC基準で断罪する「キャンセル・カルチャー」は、アメリカではドナルド・トランプとバラク・オバマなど、政治的対局に位置するはずの2人の元大統領から批判的なコメントが出る、世界各地でかつて差別的行為を行ったとされる歴史上の人物の像が撤去されるなど、社会的な論争となっている。
それどころか、これまでマイノリティとされてきた人達、あるいは「マイノリティの味方」を自称する人達が、マジョリティに対して逆差別とも取れるような言動や行動が現れ始めたとの意見もある。
作り手の側に立てば、マイノリティ側にとっては創作活動や自分達がそこで望む形で表現されるチャンスであるが、一方で文章や画像、映像などの製作における表現が制限される事態にも繋がる。出版物・映像業界のリソースも無限ではないため、単純に制作側の「パイが奪われる」状況にもなる。
更にPC推進論者の中には「『男の子と思われたキャラクターが実は女の子だった』設定・展開は規制・禁止すべき」との暴論まで挙げる層すらいる(曰く「多様性が唄われる現代社会で、着衣がボーイッシュかガーリッシュかで性別を決め付けるのは不適当」)。
PCを推進する・積極的に受け入れている側からも、過剰かつ無駄な改変や修正は「差別があった歴史そのものを抹消しようとしている」との批判を受けている。
女性差別や人種差別を歴史作品から撤廃した結果、悪人の悪行が無くなってしまい、歴史修正の上にシナリオ自体が破綻する実態は、もはやタチの悪いジョークのようである。結果として、現在の過剰なポリコレ・反ポリコレ戦争は、お互いの見たくない歴史を消す為に都合良く利用し合う結果、お互いに守るべきはずのものまで消えて行ってしまう矛盾を生じせている状態にある。
またPCへの配慮が進むに連れ「多人数の実兄弟ものが作りづらくなる」「昔ながらの従属的な女性を否定するあまり、強い女性ばかりが出てくる」「人種を均等に入れなければならないので、グループもののメンバー構成が似通ってしまう」など、作品の多様性の観点で悪影響が生まれた事例もある。
本質的な話をすれば、ただ多様な人種を出すだけでは、既に批判を受けているマジカル・ニグロや白人の救世主等の焼き直しになりかねないため、登場させた多様なキャラクターは人格を深く掘り下げる事態が望ましいと思われる。
その上、逆に人種の多様性を作品に持ち込んで批判・炎上した実例もあり、TVドラマ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』が挙げられる。端的に批判した者達の意見を要約すると「原作=中つ国の住民には褐色肌のエルフはいないから、世界観を破壊する肌の俳優はただちに白人俳優に変えろ」であり、これには製作サイドは当然反論している。
他にも類似したケースでは『スター・ウォーズ』シリーズで白人系ではない俳優が主役に抜擢されるも、後のシリーズで脇役に追いやられるケースもあった。
PCが「ブーム」になっているのは「社会正義への切なる願いが届いたもの」ではなく、「商業的なリスクを及ぼす勢力に媚を売っているだけでしかない」との声も存在する。
また、海外の大手銀行の多くは、企業への融資の際に〈ESG(=「Environment(=環境)」「Social(=社会)」「Government(=企業統治)」のキャピタルを並べた略語) スコア〉と呼ばれるシステムを採用しているが、端的にはPCに配慮しない企業は〈ESGスコア〉が低評価になる =そもそも融資の対象外になる横暴が容認されており、故に企業各社はPCコンサルタントを雇う等々をして、強制的にPC推進をせざるを得なくなっている現状もある。
商業的リスクを与えられない小規模なコミュニティや、日本人のように国民性として大規模な抗議活動を控えがちな民族に対しては、配慮を欠いた言動が当然のように行われている。
関連タグ
政治 言語 表現 ステレオタイプ 多様性 規制 フェミニズム
ダブルスタンダード:現在の(俄)PC論者および(俄)PC否定論者の基本スタンス。
判官贔屓:PC対象が悲惨な立ち位置、あるいは負けサイドにいると、感情移入や入れ込みが高じて生じやすい概念。必ずしもPC対象と相対する側が悪い訳では無いのだが、PC論者は「相手を批判出来れば良い」としか考えない事も多い為、基本的に理非曲直を正す気が無い。
特別じゃない、しあわせな時間。:極当たり前の家族団欒の光景であるのだが、欧米のPC推進派からは「片親家庭orLGBTを考えていない無神経な描写」と糾弾されている。しかし、それと同じかそれ以上に「PCのせいでこのような光景が見られなくなってツラい」との声も多数挙がっており、現在のPCが如何に本質からかけ離れている実態を端的に示している。
おおえのたかゆき:配信者兼ポリコレ評論家。アンチポリコレ派であり、昨今の行き過ぎたポリコレ問題について多角的に分析し、様々な名言を残している。