概要
所属国 | アメリカ合衆国(米国) |
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出生日 | 1961年8月4日(62歳) |
出生地 | ハワイ州ホノルル |
所属政党 | 民主党 |
出身校 | オクシデンタル大学・コロンビア大学・ハーバード大学 |
宗教 | キリスト教プロテスタント |
配偶者(2024年2月時点) | ミシェル・ロビンソン |
子女 | 2人 |
バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(英語:Barack Hussein Obama Jr.、1961年8月4日 - )は、アメリカ合衆国(米国)の政治家。第44代大統領。初めて白人以外の人種から選出された大統領として注目を集めたが、母方は白人家系である。歴代で最も不法移民を国外退去処分にした大統領で、在任中に300万人以上の移民を強制送還した。名「バラク」は「神に祝福されし者」を意味するスワヒリ語であり、姓「オバマ」はケニアに住むルオ族に見られる姓である。
経歴
初期
1961年8月4日にハワイ州ホノルルで、「女性と子供のためのカピオラニ・メディカル・センター」で誕生。1983年5月にコロンビア大学を政治学学士号を取得して卒業。その後はシカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして活躍。1988年9月にハーバード・ロー・スクールに入学、そこで『ハーバード・ロー・レビュー』という法学雑誌で黒人初の編集長を務めた。
1992年8月、シカゴ大学ロースクールで教員として教鞭を執り、2004年11月に連邦上院議員に選出されるまでは、ここで憲法を教えた一方で選挙政治にも携わった。1997年1月 - 2004年11月までイリノイ州議会上院議員を務め、同月に連邦上院議員選挙に立候補して当選。2005年1月にイリノイ州選出連邦上院議員に就任、黒人議会議員団唯一の連邦上院議員となった。
2008年大統領選
2008年の米国大統領選では、予備選挙でヒラリー・クリントン連邦上院議員と接戦を繰広げた。同年6月に民主党大統領候補に正式指名され、同年8月にジョー・バイデン現大統領(当時は連邦上院議員)を副大統領候補に内定。本選挙で共和党のジョン・マケイン連邦上院議員とアラスカ州のサラ・ペイリン州知事のペアを破って勝利し、2009年1月に大統領に就任した。同年10月にノーベル平和賞受賞者に選出されたが、この決定は賞賛と批判が入り混じった結果となった。
大統領
1期目
2009年1月に大統領1期目が開始。その行動は経済を大不況から回復させるための大規模な景気刺激策・前任の政権での減税の部分的な延長・医療保険改革法案・イラクでの大規模な米軍駐留終了などを含んでいた。一方で連邦最高裁判所判事にソニア・ソトマイヨールとエレナ・ケーガンを任命、ソニアはヒスパニック系アメリカ人として初の判事となった。
2011年4月、アメリカ同時多発テロ首謀者にして国際テロ組織「アルカーイダ」の初代司令官・ウサマ・ビンラディンを殺害するべくネプチューン・スピア作戦を命令し、テロとの戦いの成果と強調する一方で、国内外での報復テロなどに対する警戒を緩めない方針を強調した。さらに「米国の安全が脅かされる事態に甘んじることは決してない」と述べ、今後も同盟国などと連携しながらテロとの戦いを続けると訴えた。同年3月に採択された安保理決議を履行するべくリビアに対する軍事的な関与を命令、ムアンマル・アル・カダフィ打倒に貢献した。
2012年米国大統領選
2012年米国大統領選では、共和党でマサチューセッツ州のミット・ロムニー前州知事とポール・ライアン連邦下院議員のペアと一戦を交え、332人の選挙人を獲得して大統領再選を勝ち取った。オバマが再選されたのは同年10月に発生したハリケーン・サンディでの対応が高く評価され、これが最終的な後押しとなったとの論評がある。
2期目
2013年1月に2期目の任期が開始されてからは気候変動と闘う措置を講じ、二酸化炭素(CO2)排出量を制限する行動計画を発表すると共にパリ協定を批准した。一方で1期目の時に可決された医療費負担適正化法やその他の法案の施行を主宰し、イランと核合意を交渉した他にキューバとの外交関係を正常化した。アフガニスタン(アフガン)におけるアメリカ軍兵士の数は政権の2期目で劇的に減少したが、結局兵員は自身の在任中は一貫してアフガンに留まった。
オバマはLGBTでの米国人包摂を推進し、大統領に在任していた2015年6月に連邦最高裁は、オーバーゲフェル対ホッジス事件で同性結婚を禁止することは憲法に違反するとしてこれを無効とした。この裁判は5対4という僅差の評決で決まり、ある州で正式に結婚を認定された同性のカップルには、他の全ての州でも正式に結婚する資格を認定する事を義務付けた。
退任後
2017年1月20日に2期8年の任期を満了して大統領を退任、引続きワシントンD.C.に居住している。シカゴにある大統領図書館は2021年8月に建設が開始され、退任した後も自身は民主党政治に積極的に参加し続けている。さらに2020年米国大統領選では、自身の政権で副大統領であったバイデンが当選するなど、様々な米国選挙で候補者選挙運動を実施して来た。
外交
イギリス(英国)
2009年3月にゴードン・ブラウン首相が訪問したが、英国報道機関は首脳会談時間が短いと指摘するなど、オバマ側の応対に懐疑的な論調が強まっていた。同年4月にオバマ夫妻はバッキンガム宮殿を訪問したが、その際もミシェル夫人はエリザベス2世の背中に手を回して身体に触れるなど、外交儀礼を無視した行動を取った。
日本
2009年2月に日本から麻生太郎元首相が米国を訪問、オバマにとってはホワイトハウスで開催される初の外国首脳との会談となった。同年11月にシンガポールで開催されるAPEC首脳会議に出席する途中に日本を訪問し、鳩山由紀夫首相との首脳会談で日米安保について会談した。
皇居御所で天皇皇后両陛下と昼食会など準国賓並みの待遇を受けた。この時天皇と握手した際に最敬礼に近い角度で深々とお辞儀をしたが、米国内の一部報道機関からは「大統領が他国の君主に対して頭を下げるのは不適切」との批判の声が挙がった。このお辞儀についてケリー報道官は記者会見で「天皇に対する尊敬の表れ」と述べて問題はないとし、さらに「日本の国家元首と初めて会う際に敬意を示す事は、大統領にとって自然な振る舞い」と述べた。退任した後も2018年3月に日本を訪問し、安倍首相と会談して旧交を温めている。
2010年11月に菅直人元首相との首脳会談で、日本が安保理常任理事国に入ることに支持を表明した。一方でロシア・中国との領土問題で対応に苦慮する日本政府の立場を支持し、同月に発生した「延坪島砲撃事件」を契機として安全保障での協力関係強化を主張するなど、日米同盟を基盤とした同盟関係の強化を重視した。2014年4月に安倍晋三元総理と会談し、その後の記者会見で「日本の尖閣諸島は日米安保条約第5条の適用対象であり、米国は防衛義務を負う」と表明した。
2016年5月に三重県志摩市でのサミットに参加するために日本を訪問し、現職の大統領として初めて広島平和記念公園を訪問した。そこでは原爆慰霊碑に献花・原爆被害者との面会・広島平和記念資料館を訪問し、犠牲者を悼んで核兵器の廃絶について演説した。立場上原爆投下についての謝罪は出来ず、日米両国・諸外国で賛否両論はあったものの歴史的な行動であった。
メキシコ
メキシコは米国と国境を接する国の1国であり、大統領就任前後に首脳会談を開催することが半ば慣例となっているなど深い両国関係にある。しかし、麻薬を巡る非難の応酬により、メキシコ脳部が激怒する事態を招いた。
中国
異父妹の夫が中国系カナダ人であり、異母弟にも中国人の妻と結婚している者もいることから、親戚筋を通じて中国と関わりを持っている。政権が発足した当初は中国との関係を深めようとする関与的な協調路線を採ったため、「親中派」と評されたこともあった。米中戦略経済対話冒頭演説では、中国の思想家である孟子の教えを引用し、米中両国の相互理解を促した。また、米中両国が緊密な協力関係を結ぶ新時代の幕開けへ向け、気候変動・自由貿易・イラン核開発問題など多くの課題で協力していく事で合意し、この様な協力関係は「G2」と呼ばれた時期もあった。
2009年11月に米中首脳会談を開催した時点では、チベットと新疆ウイグルの独立問題・両岸の間における所謂「台湾問題」では中国の立場を尊重し、それに対して胡錦濤党総書記は「米国側の理解と支持を希望する」と述べた。他にオバマはダライ・ラマ14世のアメリカ訪問での会談を見送っており、人権派議員らに「北京への叩頭外交」と批判された。
2010年1月にオバマ政権はブッシュ元大統領同様、台湾に総額64億ドル(約5800億円)に上る大規模な武器売却を決定するなど、台湾関係法に準じた対応を取った。同年2月にオバマは米国を訪問したダライ・ラマ14世と会談した際、共産党政府は会談以前から猛烈な抗議と非難を行ったが、米国政府は中国の抗議に取合わない姿勢を表明していた。その後も中国政府はオバマとダライ・ラマの会談に対して最大限の非難を繰返した。
同年9月に東アジア軍事バランス変化を重要視する米国とASEAN諸国との共同声明において、南シナ海の資源を狙って軍事活動を行う中国の動きを牽制する内容が盛り込まれた。ただし米中両国の信頼を醸成するべく環太平洋合同演習(リムパック)に中国が参加する事を認め、環境政策では協力できるとしてパリ協定に中国と同時に批准した。退任後も釣魚台国賓館で習近平党総書記と会見して中国との交流を深めたいと表明している。
キューバ
2014年12月にラウル・カストロ国家評議会議長と、外交関係正常化に向けた交渉を開始すると発表した。キューバとは1961年1月に外交関係を断絶したが、2013年6月からカナダとローマ教皇フランシスコを仲介役として極秘裏に交渉しており、その目処が立ったのを受けての発表であった。2015年7月に両国に大使館が新設されて正式に外交関係を樹立し、2016年3月に現職大統領としては、1928年1月のクーリッジ元大統領以来88年振りにキューバを訪問した。
シリア
2013年8月に兼ねてから内戦状態であったダマスカス市郊外で化学兵器サリンが使用されたと報じられ、ジョン・フォーブズ・ケリー国務長官はシリア政府が使用したことは「否定出来ない」と発言した。しかし、化学兵器使用をシリア政府が行ったものか、反アサド政権組織が行ったものかは特定されなかった。こうした中でオバマは安保理決議がなくてもシリアへ介入する姿勢を見せ、化学兵器の使用についてアサド政権によるものであるとの結論に達したと述べた。
しかし、英国参戦が見込めなくなり、また国内からのオバマに対する批判の声が多々挙がった。結局オバマは連邦議会承認を得た上で、アサド政権に対する限定的な武力行使に踏み切ると表明し、オバマは議員との夕食会に参加して武力介入の支持を求めていた。2013年9月にロシアはシリアの化学兵器を国際的な管理の下で廃棄し、シリアが化学兵器禁止条約に加盟するよう提案した。この提案に米国も合意したことから、シリアに侵攻するのは見送られた。
イラン
2013年9月にイランのハサン・ロウハニ大統領と電話で会談し、1979年2月にイラン革命が発生した後としては初めて両国の首脳が接触した。
家族
1992年10月にミシェル・ロビンソンと結婚し、1998年7月に長女のマリア・2001年6月に次女のサーシャが誕生した。2006年10月のインタビューで、オバマは拡大家族の多様性を強調した。
語録
- Yes we can.
訳は「私達は出来る」である。大統領に初当選する2008年大統領選でスローガンの様に使われ、スピーチでも多用されたオバマの代名詞的なフレーズである。2017年1月に行われた現役最後のスピーチでは、これをもじって「Yes we did.(私達はやった)」と発言して大喝采を浴びた。
- Change
訳は「変革」。「Yes we can.」と共に2008年大統領選で多用された言葉で、こちらもオバマを象徴するフレーズの1つとなっている。
- death fell from the sky and the world was changed.
訳は「空から死が降って来て、世界は変わった」。現職大統領として初の広島訪問時に行われたスピーチの一文である。原爆投下は米国で戦争終結のキッカケという肯定的な事象であるため、現職大統領・オバマは直接的な謝罪が出来なかった。この文学的な表現は、そんな状況下で原爆投下の惨劇をいかに言い表すかを思案した結果のオバマ流表現である。
余談
- 2009年1月の大統領就任式での宣誓は、リンカーン元大統領が1861年3月に1期目の就任式で使用した聖書に左手を置いて執行した。その際にジョン・ロバーツ最高裁長官が宣誓文を読み間違えたことを受け、20日の宣誓は法的には有効であるものの、翌21日にホワイトハウス内でやり直している。
- 任期中に米国の海外での評価は大幅向上したとされる。オバマの大統領職は一般的に好意的に評価されており、歴史家・政治学者・一般市民間での彼の大統領職に対する評価は、大統領の中で上位に位置している。
- 一方、そのリベラル左派としての手腕から、本国右翼層からは「社会主義者」と揶揄されることがある。
- オバマ勝利後に米国国内で銃器売上が一時急増した。これはオバマやバイデンが銃規制に前向きであると見られていたからである。政権が発足した後に銃規制が強化されることを懸念した人々からの注文が増加し、ライフルや自動小銃売上が伸びたという。
- 『大乱闘スマッシュブラザーズ』ではキャプテン・ファルコン使いであることが、2023年に発覚した。
- 大統領退任後の2018年3月に来日し、その時に安倍元総理と対談した後、ワールドメイト教祖である深見東州と対談した。
- 前述の通りアフリカ系ではあるが、アフリカ系アメリカ人の最大多数派である、いわゆる「奴隷の子孫」ではない(米国人に連れて来られた黒人奴隷の大半がアフリカ西海岸系であるが、彼の父親はアフリカでも東海岸系)。
- ただし、遺伝子検査の結果、西アフリカ系DNAも検出されている。これは、ほぼ純粋な白人系と思われていた母方にも、実は「米国に連れて来られたアフリカ系奴隷」の先祖が僅かながらいたためと思われる。
関連タグ
ボブとはたらくブーブーズ:彼の言葉「Yes we can.」の元ネタ。
ヨゴシマクリタイン:彼の言葉「Yes we can.」をまんま使っている。